知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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カフカの寓話


カフカのすべての短編小説に動物が登場するわけではないにせよ、彼の短編小説は本質的には動物を描くものだ、とドルーズとガタリは言う。カフカの文学には、とりわけ短編小説の形式で語られる物語には、出口を見出し、逃走の線を描くという目的があるが、動物はそうした目的を描くには非常に適したモチーフだと言うのだ。マイナー文学の語り手としてのカフカには、ゲーテなどの大文字の(メジャーな)文学とは異なり、自分自身と自分が生きるこの世界との間に、親密な関係を持つことが出来ない。彼はこの世界に安住できる場所を持たないので、常にそこから逃走したいという衝動に駆られる。動物はそうした逃走への衝動にとって出口になれる唯一の回路というわけである。だからカフカが長編小説を書くようになるのは、動物の物語を通じては出口を見出せないと感じたときなのだとドルーズらは言いたいようである。カフカの長編小説は、終わりのない旅のようなものなのであり、したがってそこにはどこにも出口を見出すことができない。

カフカの短編小説のうち、動物が出てくる物語の日本語訳は、岩波文庫から「カフカ寓話集」という形で出ている。この文庫版は、三十本の文章を収めており(「変身」を除く)、その中には動物の出てこないものも多く含まれる。それらを含めてこの文庫の編者は「寓話集」と題打ったわけだが、寓話という言葉を使ったことには大した意味はないと言っている。たしかにカフカは、動物の物語を寓話として書いたわけではない。上述したように、カフカにとって物語とは本質的に動物を描くものだからだ。ここでは、その動物の話を中心に、この寓話集に収められた作品について、鑑賞したいと思う。

まず、「ジャッカルとアラビア人」。これは沙漠のオアシスで休んでいた北方系の人物とジャッカルとの対話を描いたものだ。ジャッカルは、相手がアラビア人ではなく北方の人間で、したがってアラビア人とは違って悟性をもっていることを頼りにして、是非アラビア人を殺して欲しいといって、さびた鋏を差し出す。ジャッカルはいうのだ、「高邁な心と、うるわしい内臓をお持ちの方なら、この世が我慢ならないはずでしょうがね・・・この鋏をおあずけしよう。万能のその手に握って、やつらの首をチョキンと切り落としてもらいたい」。ところがそんなジャッカルたちの憎しみをアラビア人のキャラバンの隊長はよく知っていて、鞭をふるって威嚇するのだ。そうしてこう言う、「まったくのところ、おかしな獣じゃありませんか。それにしてもやつらときたら、なんとわたしたちを憎んでいることでしょう」(池内紀編訳、以下同じ)

この奇妙な物語でカフカは何を言おうとしたか。ジャッカルの立場に立って、人間の愚かさをあてこすろうとしたのか、あるいはそのジャッカルを笑いものにすることで、愚かさを笑うことの愚かさを皮肉っているのだろうか。

「ある学会報告」は、人間の社会に溶け込んで、人間らしい振る舞いをするようになったサルが、己がなぜ人間らしくなったか、そのいきさつを人間に向かってしゃべる話だ。サルは言う、「ドイツ語には『姿をくらます』といった意味の好都合な言い回しがあるようですから、ひとつそれを拝借しましょう。『繁みに入る』、つまり私は人間の繁みに分け入ったのです。ほかに道がなかったからでありましてね。とまれ、まあ、自由を選ぶのは論外ということを前提としての話ではありますが」。つまりこのサルは、自由からではなく、いきさつ上人間の繁みに入りこみ、その結果人間らしい振る舞いをするようになったというわけだ。

カフカの動物譚は人間が動物に変身する話が大部分だが、この話の場合には動物であるサルが人間に変身する。人間がサルに変身すれば、それは人間にとってひとつの出口を見出したことになろうが、サルが人間に変身することにはどのような効果が認められるのか。ゴキブリに変身したグレゴール・ザムザには死ぬという道が待っていたが、この物語の中のサルにはそのような気配は感じられない。サルは人間であることに満足し、そのままの形でずっと生き続けるつもりでいる。

「巣穴」は、地面に穴を掘って、そこに暮している生き物の話だ。どんな生き物かは明示されていないが、話の様子からしてどうやらモグラの仲間のようである。だが並のモグラではない。歯の端っこに鼠をひっかけたというくらいだから、かなりな大きさだ。巨大なモグラ、モグラの化け物を連想させる。「変身」ではザムザが巨大なゴキブリに変身することになっているから、巨大なモグラがカフカの小説に出てきてもおかしくはない。

この巨大なモグラは、巣穴を彫り続けることに生涯を費やしてきて、いまや生命の黄昏を迎えたという設定である。その黄昏時になって、巣穴の付近になにか生き物の気配を感じる。生き物が立てるような音が、かすかなりとも聞こえてきたからだ。それに対して巨大なモグラは、どうしたらよいか考える。考えるといっても、モグラは人間と違って悟性的ではないから、考えは明確なイメージを結ばない。下手な考え休むに似たり、という日本のことわざがあるが、このチェコのモグラも下手な考えをめぐらすだけで、堂々巡りをしているにすぎない。しかし巨大なモグラは考えることを止められない。なぜなら巨大なモグラにとって生きるとは、下手な考えを延々とめぐらし続けることだからだ。という具合に、この物語は巨大なモグラの無意味なつぶやきからなっていて、しかもそのつぶやきに果てがない。生きている限りつぶやき続けるだろうと、読者に思わせることだけを唯一の効果として残しながら、この小説はなんとなく終わってしまうのである。

「歌姫ジョゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」は、題名にあるとおり、二十日鼠族の歌姫ジョゼフィーネの物語である。純粋に動物の物語と言う点で、「巣穴」同様人間とのかかわりはない。人間が動物に変身したわけではなく、初めから動物として生まれ、今でも動物であり続けている動物の物語である。

ジョゼフィーネは歌姫である。「彼女の歌うのを聞いたことがなければ歌の力がわかるまい」と言われるような歌姫である。だが、ジョゼフィーネは決して歌がうまいというわけではなく、また他のネズミたちがそれをうっとりと聞いているわけでもない。何故なら鼠には歌がわからないからだ。当のジョゼフィーネにしても、受け取りようによっては、ただ、ちゅーちゅー、と鳴いているだけで、歌っているようには聞こえない。だが本人のジョゼフィーネがその気で歌っているのだから、我々もその努力を、幾分でも認めてやろう、そうした寛大な気持を他のネズミたちは持っている。ジョゼフィーネはその寛大さに付け入って、歌を歌うことで時間をつぶし、鼠としてなすべき義務を怠っている。しかしそのことに他の鼠が目くじらを立てることもない。

そんなわけであるから、ある日突然ジョゼフィーネが居なくなってしまっても、誰も気にするものはいない。「当人は選ばれた者のつもりであったにせよ、わが民の数知れぬ英雄たちのなかに、はればれとして消えてゆく。われわれはとりたてて歴史を尊ばないので、いずれ、すべて彼女の兄弟たちと同じように、よりきよらかな姿をとって、すみやかに忘れられていくだろう」というわけである。

「断食芸人」は、動物ではなく人間が出てくる話だが、ふつうの人間とはかなり違った人間の話だ。断食に生きがいを感じている芸人が、生きがいが過ぎた挙句に、サーカスの檻の中で飢え死んでしまうという話である。しかし彼が死んだといって、なにか変った事態が起こるわけではない。世の中は、まったく以前と変わらないように動いてゆくのである。彼が死んだとき、断食芸人の監督は言う。「よし片づけろ」と。そして、「断食芸人は藁くずと一緒に葬られた。代って檻には一匹の精悍な豹が入れられた。永らく放りっぱなしであった檻に、いまや生きのいい豹が飛び回っている。どんなに鈍感な人にも、目のさめるようなたのしみというものだった」

自分が生きていることには意味があると感じている人間がいるとしても、それは彼だけの感じ方の問題で、世の中は彼について別の見方をしているかもしれない。ジョゼフィーネも断食芸人も、そんな当人と世の中とのずれのようなものを、あぶりだしている格好の例と言えよう。




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