知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板




カフカ「アメリカ」


カフカは生涯に三篇の長編小説を書いた。「アメリカ」はその最初のものである。1912年(29歳の時)に書き始め、その第一章にあたる「火夫」の部分を翌年の1913年に独立した短編小説として出版した。全体は八章からなるが、そのうちの第七章と第八章との間に強い断絶があり、また結末も曖昧であることから、未完成の作品と言ってよい。

長編・短編含めて、カフカの小説の中では最も早い時期に執筆された。そんなこともあって、他の二編の長編小説とも、また多くの短編小説ともかなり違った趣を呈している。カフカ特有のあの暗い雰囲気はほとんどないし、不合理性とか意外性といった要素も見られない。

カフカがこれを書き始めたのは、カフカにとって運命の女性といわれるフェリーツェ・バウアーとの出会いがきっかけだったとする説がある。ドルーズとガタリなどは、フェリーツェとの出会いが、カフカを短編小説から長編小説へと飛躍させたというような言い方をしている。だがカフカは「アメリカ」執筆後も多くの短編小説を書いているし、いわゆるカフカ的世界が本格的に展開される「変身」が、「アメリカ」執筆以後に書かれていることからすれば、ドルーズらの見方はあまり根拠があるとは言えない。

やはり「アメリカ」は、カフカにとっては処女作かそれに近い位置づけの作品であって、カフカはそこに自分なりの若い理想を盛り込んだのだろうと思う。この小説が取り組んでいるのは、若者のイニシエーションである。若者のイニシエーションは、どの国の文学でも太い山脈を形成するテーマであるが、とりわけドイツ語圏の文学には好まれたテーマだ。ゲーテの一連の「ウィルヘルム・マイスター」ものなどは、その代表的なものである。

そんなことから、この小説は非常に判りやすい。ヨーロッパを追い払われた十六歳の少年が、アメリカに渡って、そこで辛酸を舐めながら成長してゆく過程を描く、というのが基本的なプロットだ。その描き方に多少変ったところはあるが、それはいわゆる教養小説のジャンル内での許容できるバリエーションだ。

小説の大部分は、カール・ロスマンという名の少年が、自分の運命を切り開く為に、世の中と渡り合うところを描いている。最終章だけはちょっと異なっていて、そこではカール少年は、オクラホマ劇場というところに採用されようとして色々頑張るところが描かれる。その部分の描き方にいわゆるカフカらしさが現われている。この部分は、先行する部分とほとんどつながりがなく、断絶した印象を受けるので、カフカは恐らく、先行部分を書いた後、かなりな時間の間隔をおいてこれをつけたし、そのつけたし方がうまくいかなかったこともあって、結局未完成のまま放置したということではないか。

イニシエーションの物語であるから、主人公が様々な試練に直面するのは当然のことだが、主人公のそうした試練への向き合い方に、読者が多少のもどかしさを感じるように書かれている。カールはまだ十六歳で世間知らずの少年なのだから、世間に対してスマートに立ち回れないのは仕方がないにしても、カールの処世術はあまりにも幼い、というか自滅的な傾向がある。アメリカへ上陸するや成功した実業家で上院議員でもあるという叔父に出会い、折角運命が開けたと思ったら、つまらないことで叔父を激怒させ、追放されてしまう。その放浪の途上二人の不良と出会うが、その不良たちにはたかられるだけで、一向明るい展望が見えてこない。そこでホテルの従業員としてもぐりこむことになるが、その時にも母親のように優しい女性に助けられて運命が開けたようになったと書かれている。しかしまたもや不良少年とかかわったことでホテルを追い出されるハメになる。その挙句に、今では金持ち女のとりまきになっている例の二人の不良たちに、なかば強制的に付き合わされる。それというのも、金持ち女に奴隷のように仕えさせられるのだ。

こんな具合で、主人公のカール少年は、つねに危機的な状況に直面しているわりには、そこから何も学べない愚かな少年として描かれている。それ故読者は、この少年は知能が遅れているのではないかとの印象さえ持たされてしまう。その辺が、カフカらしさの現われといえないでもない。

カフカらしさがもっとも強く現われているのは、最終章だ。ここでカール少年は、オクラホマ野外劇場というところに採用されようとしていろいろ頑張る過程が描かれる。だがカール少年は、すこしも頑張る必要などないのだ。というのも、この劇場は、どういうわけか、人材の確保に問題があるらしく、人間でありさえすればどんな人間でも拒まないのである。そういうわけでカール少年も、大勢の連中と一緒に採用され、列車に乗ってオクラホマを目指すことになる。だがそのオクラホマで何が自分たちを待っているのか、カール少年もほかの連中も誰一人知らない。彼らにとっては、うまいものを食わしてもらって腹が満ちたりたことだけでも僥倖なのだ。

カフカが何故アメリカを舞台にこんな小説を書いたのか、その動機はよくわからない。カフカ自身はアメリカに行ったことはなく、アメリカがどんなところなのか、書物や新聞を通じて知っているだけだった。そんなアメリカを舞台に、少年のイニシエーションのプロセスを書き、そのイニシエーションがあまりうまく進んでいないことを読者に感じさせる。いささか不可解な設定ではあるまいか。そんな意味でこの小説は、やはり未熟なまま未完成に終わったといえるのではないか。




HOME| 世界の文学| カフカ 次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2017
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである