知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOMEブログ本館東京を描く英文学ブレイク詩集仏文学万葉集漢詩プロフィール掲示板


ルカーチのドン・キホーテ論




ジェルジ・ルカーチは筋金入りのマルクス主義者だから、彼の文学理論も革命的リアリズムを基調にしたものだろう、と誰もが思っていることだろう。だが、この革命的リアリズムというのがいまひとつ明確ではない。スターリンの仲間たちが喧伝した社会主義リアリズムは論外として、レーニンの文学理論は輪郭がいまひとつ定かではない。エンゲルスはハイネを熱愛したが、ハイネは文学史上ロマンティシズムの巨匠ということになっている。ところがロマンティシズムほど、リアリズムの対極にあるものはないとされている、という具合に。

ルカーチが文学を評価する基準は、基本的には、それが社会の発展の方向と一致しているか、ということだ。つまり歴史主義駅な傾向が強い立場と言えよう。だからルネサンス期の文学においては、中世的なものをなるだけ排斥して、理性や自由などの近代的な価値観を謳歌する文学が正しい文学だということになり、産業革命期の文学においては、産業の非人間性を暴きだし、社会の矛盾を糾弾する文学が正しい文学だということになり、19世紀に繁栄したロマンティシズムは反動的な文學だということになる。

こうした基準に照らせば、「ドン・キホーテ」は偉大な作品だということになる。「<ドン・キホーテ>がつねに、もっとも進歩的な人間の愛読書であったことは故なしとしない。マルクスにとって、セルバンテスとバルザックは小説の最高峰を代表するものであった」(高木研一訳「ドン・キホーテ」)

「ドン・キホーテ」は、一方では中世的な価値観を嘲笑し、ルネサンスの進歩的雰囲気を代表しているとともに、それ以降の新しいブルジョア社会の到来を予感している、「ドン・キホーテ」は17世紀以降に展開するあらゆる近代小説の模範となっている、というわけである。

では、「ドン・キホーテ」はどのようにして中世的な価値観を粉砕しているのだろうか。ルカーチは「風刺」がそのポイントだとする。ドン・キホーテは風刺を通じて中世的な価値観を粉砕し、本当に重要なのは社会の進歩に貢献する価値観なのだということを読者に気づかせる。「ドン・キホーテ」は、「これまで書かれた最も徹底した風刺文学」なのである。

「ドン・キホーテ」の風刺のレトリックは、ドン・キホーテ自らが中世的な価値観の体現者として振る舞うことからもたらされる。ドン・キホーテは狂うことを通じて、自分を騎士道物語の主人公に同化させる。騎士道物語の主人公とは、もっとも色濃く中世的価値観を体現した人物だ。その人物が、現実とかかわることから、様々な不具合が展開される。「かれのあらゆる行動は裏目と出る、崇高なものは笑うべきものとなり、親切は害となり、善意は無意味となる」

つまり、「ドン・キホーテ」は、主人公を批判すべき対象のパロディに仕立て上げることによって、主人公の振る舞いをアイロニーと化し、それによってかえって、対象のもつ非合理性、反動性を浮かび上がらせるというのだ。その点で、「ドン・キホーテ」は、逆説的な意味合いでリアリズム文学だということができる。しかもそれは「批判的リアリズム」と称すべき高度なリアリズムなのだ。

セルバンテスは、この批判的リアリズムの手法を用いて、没落しつつあった封建制のイデオロギーと戦った、というのがルカーチの主張の眼目である。

セルバンテスの同時代人であったシェイクスピアも、この「没落しつつある封建制のイデオロギー」と戦った偉大な作家であるとルカーチは言う。しかし、その手法は微妙に違っていた。シェイクスピアの場合には、或る時は悲劇で(リチャード三世)、或る時は喜劇で(フォールスタッフ)、典型としてとらえられた没落の諸形態を描き出して見せた。そこにまみれている封建制度の道徳的な腐敗をこれでもか、これでもかと暴き出す。シェイクスピアの批判はだから、極めてストレートな性格を帯びている。

これに対してセルバンテスは、主人公に狂人を演じさせることによって、その主人公が疑似的に体現している価値観を笑いのめす手法を用いている。シェイクピア描くところのリチャード三世がグロテスクなのに対して、ドン・キホーテは笑うべきではあるが、愛すべき人物像でもある。

つまりシェイクスピアが直接的に批判するところを、セルバンテスは間接的に、それもユーモアを交えて批判する。そこが、セルバンテスが「エラスムスの弟子」と言われる所以だ。

ドン・キホーテが、笑うべき行為の数々を通じて読者に示しているのは、世の中を構成しているかに見えるあらゆる秩序の相対性である。「つまり、特性と犯罪、良い特性と悪い特性、高尚なものと愚劣なもの、悲劇的なものと滑稽なものの社会的歴史的な変わりやすさを」セルバンテスは暴いて見せるのだ。

ルカーチにとって、本当の徳性でありうるものは、社会の発展に役立つものだけであった。「まったく時代を超えた」美学の概念でさえ、ただこの関連においてのみ確固たる意味を獲得できる、というわけだ。

こうしたわけだから、ドン・キホーテが、果して肯定的な人物なのか、それとも否定的な人物なのか、と問うことはナンセンスである。ドン・キホーテはあらゆる意味で相対的な人物なのである。「ドン・キホーテ」が時代を超えて読み継がれ、ある意味で超歴史的な作品になりえた理由は、ドン・キホーテのこの相対性に根差しているのだ。

ドン・キホーテが狂うことを通じて中世的な価値観のパロディとなったことと対照的に、サンチョ・パンは独特の道化知を以て、中世的価値観を嘲笑している、とルカーチはいう。サンチョは、愛する主人ドン・キホーテが、ほかならぬ中世的な価値観の塊のような人々によって嘲笑の対象とされる時に、愚かな主人を擁護することを通じて、ドン・キホーテを笑う者たちを逆に笑うのである。つまりドン・キホーテがアナクロニズムによって読者の笑いを買っているときに、サンチョ・パンサは深い知恵を発揮することで、ドン・キホーテ主従を笑う人たちを笑い返してやることができるのだ。

「この点でもセルバンテスは、市民的リアリズム小説の基礎を置いた人である。かれは、支配階級の人たちよりも民衆の方が知的にも道徳的にも優れていることを見、それを示している」こうルカーチはいって、自らの「ドン・キホーテ」論を締めくくっている。





HOMEドンキホーテを巡って次へ






作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2012
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである