知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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「ドン・キホーテ」におけるセックスのパロディ化


ドン・キホーテは狂人としての資格において中世の遍歴の騎士のパロディである。パロディであるから、形式上は中世の騎士の内実を体現しているように見えなければならない。騎士とはなにか、どんなイメージに映るべきかは、ドン・キホーテの同時代の人々には良くわかっていた。そのもっとも重要な側面は、高貴な女性への愛と奉仕である。そしてその愛には、エロティックな匂いがあってはならない。それはあくまでも、プラトニックな愛でなければならない。

ドン・キホーテの前には、ドゥルシネーアをはじめ様々な女性が登場するが、それらの女性に対してドン・キホーテが見せる態度は、プラトニックで精神的なものである。そこにはエロティシズムの匂いはない。少なくとも、肉の快楽とは無縁なものである。

だが、肉の快楽と無縁な愛など欺瞞でしかないことは、どんな時代の人々もわかっていることだ。もしそんなものを後生大事にする文化があるとすれば、それはどこかが狂っているはずなのだ。

ところがその狂った文化が歴史上には存在したのであり、それを体現していたのが中世スペインの騎士道だったわけである。それ故ドン・キホーテは、その騎士道のパロディとして、同時代の人々の嘲笑の的とならざるを得ない運命を自分から引きうけているのである。

嘲笑はどんなふうになされるのか。一言で言えば、セックスのパロディ化である。ドン・キホーテは、女性に対してプラトニックな愛を捧げるのだが、それが捧げられる当の女性にとって、ドン・キホーテの行為は肉欲の表現として映る。つまりドン・キホーテの意識においてはセックスレスな行動のはずが、相手の目にはセックスフルな行為に移る。ただし、セックスはむき出しの形で現れるわけではない、それはセックスをめぐってのあてこすりのようなものとして、つまりパロディの形で現れるわけだ。

このセックスのパロディ化の最も典型的な場面が、前篇第43章にある。いつものとおり街道宿を城と取り違えたドン・キホーテが、外壁のそばでロシナンテに跨り、思い姫ドゥルシネーアについて妄想していると、宿の娘と女中がやってきて、この気の違った騎士殿をからかってやろうと思い立つ。

宿の建物には窓と言うものがなく、穴がひとつあいているだけだったが、この穴の内側はまぐさ置き場になっていた。女中のマリトルネスは、その穴の内側から外にいるドン・キホーテに呼びかける。「もしもし、騎士様、おいやでなかったら、こちらへいらっしゃいよ」(永田寛定訳、以下同じ)

ドン・キホーテは窓(穴のこと)の内部に姫君がいるものと思い込み、何でもご所望のものをさしあげようと申し出る。すると、女中が姫君にかわって、あなたさまの片方の手を、この穴の中に突っ込んで下さることが御所望だと答える。穴は女陰の、手は男根の隠喩であり、穴の中に手を突っ込むことは性交のパロディなのだ。つまり女中たちはセックスをパロディ化することで、ドン・キホーテのプラトニックな愛を嘲笑するつもりなのである。

そこでドン・キホーテは、ロシナンテの鞍の上に、足をそろえて立ち上がり、片手をおもむろに穴の中に突っ込みながら、こういうのだ。

「いざ、姫君、この手を、いや、もっとよく申せば、世の悪人どもには怖い鬼を、おん手にせられよ。いざ、お取りあれ。この手に触れた女人はいまだ一人もなく、それがしの全身をご所望の姫とても、同断でござる。ただいまこれをおまかせいたすのは、接吻をたまわろうためではなく、神経のかよい方、筋肉のつき方、血管の太さや行き渡り方を見ていただき、かかる手を持つ腕の力がどれほどであるか、推量していただこうためでござる」

ここで描写された手が、そのまま男根のイメージに重なることは、容易に見てとれるだろう。勃起して怒張した男根が、神経や筋肉や血管などのイメージを通じて、目の前に浮かんでくるようである。しかもその男根は、男らしさの象徴として語られている。男らしさを強調することは、騎士道のマッチズモ(マッチョ主義)の本質をなすものだ。

すると、女中のマリトルネスは、「今見てあげますだよ」と言いながら、あろうことか、サンチョのロバの口縄の一端を輪にしてドン・キホーテの手にかけ、反対側の先端を部屋の扉の閂に結わえつけてしまった。ドン・キホーテの疑似男根は、これもまた疑似女陰たる穴の中に吸い込まれたまま、抜けなくなってしまうのである。

こうして一晩中ロシナンテの鞍に足をそろえて立ったまままんじりともしなかったドン・キホーテだったが、ロシナンテが牝馬に気を取られて動いてしまったため、ドン・キホーテは片手を穴に突っ込んだまま、宙吊りになってしまうのだ。その様子をみた二人の女が腹を抱えて笑ったのはいうまでもない。

セルバンテスがこの場面で読者に提示しているのは、もっとも精神的であるはずのプラトニックな愛を、もっとも物質的な肉体のイメージで代替させることから生じる、独特のユーモア感覚だ。こうすることでセルバンテスは、愛とは精神的であるのみならず肉体的なものなのであり、肉体性を軽んじる者は、肉体によって復讐される、つまり痛い思いをする、ということを言いたかったのだと思う。

この場合痛い思いをしたのは、ドン・キホーテであって、肉体性を軽んじた当の騎士たち自身ではなかった。ドン・キホーテは騎士たちのパロディの資格において、この痛みを味わされたわけである。





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