知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ドン・キホーテと魔法


「ドン・キホーテ」には、「魔法使い」という語が103回、「魔法」が50回、「魔法にかける」が127回出てくるそうだ。(牛島信明「ドン・キホーテの旅」)このことから、この小説にとって「魔法」が大きな役割を果たしていることがわかる。

現代人にとっては、「魔法」とはイリュージョナリーなものでしかないが、セルバンテスの時代、つまりルネサンスの時代までは、生き生きとした現実だった。人々は、魔法の不思議な力を本気で信じていたし、その力の持ち主である「魔法使い」や「魔女」を恐れ、彼らを捕まえては、森の中で火あぶりにしたものなのだ。

それ故、セルバンテスの同時代人であるシェイクスピアは、お人よしのボトムを、妖精パックの手にかけて、ロバに変えてしまうのである。妖精パックはいうまでもなく、魔法使いなのだ。

シェイクスピアの世界では、魔法使いが可視的な姿で現れ、目に見える形で魔法をかけて見せるのに対して、「ドン・キホーテ」の世界では、魔法使いが現れるわけでもないし、魔法が演じられるわけでもない。魔法は、頭の狂った遍歴の騎士ドン・キホーテの頭の中にしか存在しない。しかも、ドン・キホーテの頭には魔法と受け取れる事態も、サンチョ・パンサやそれ以外の人々には、そのようには映らない。彼らは無論、魔法使いや魔法の存在自体を否定しているわけではないのだが、ドン・キホーテが魔法と言い張る事態に、魔法性を認めることができないのである。

なぜ、他の人には魔法と映らないものが、ドン・キホーテには魔法と映るのだろうか。それは、ドン・キホーテの現実とのかかわり合いのスタイルに根差している。

騎士物語を読み過ぎて頭のおかしくなったドン・キホーテは、自分もまた遍歴の騎士になって、騎士物語の中で描かれていたことを、そのままに実現しようとしている。その時点で彼は、騎士物語のパロディになっているわけだ。パロディであるから、彼の行為は第三者にとっては笑いの対象でしかない。しかし本人にとってはそうではない。彼は真剣なのである。

ドン・キホーテは真剣なのであるが、真剣であればあるだけ、自分の思いや行動が、何故現実とマッチングしないのか、わけがわからなくなる、つまり混乱してしまうのだ。ドン・キホーテはそうした事態を、混乱したままに放置できないこともある。そこで、その混乱の原因を、自分自身の狂った頭にではなく、魔法使いの魔法のせいにしてしまうのである。

サンチョ・パンサを伴って遍歴の旅に出たドン・キホーテが、林立する水車を巨人たちの群れと間違い、勇猛果敢に突進した時、彼の目にはあくまでも巨人の姿が映っていたし、水車の羽根に跳ね飛ばされた時には、自分が巨人の腕で投げ払われたように映っていたはずなのだ。しかし、お供のサンチョ・パンサがそうではないと、あまりに執拗にいうものだから、我に返って見渡すと、たしかにサンチョ・パンサが言うように、そこにいるのは巨人ではなく風車であった。この時、ドン・キホーテは一瞬正気に戻ったのだと思えるが、それでも彼は、自分の見誤りを素直に認めたからず、魔法使いフレストンが、自分を欺いたのだと言い張るのである。

ここに確認できるのは、ドン・キホーテにとって魔法とは、自分が現実と折り合わないことに対する、言い訳のような役割を果たしているわけなのである。

サンチョ・パンサの目には無論、ドン・キホーテのいうようには映らない。風車はあくまでも風車なのである。つまり彼はリアリストなのである。だから、無頼者たちによってなぶりものにされ、さんざん痛い目にあわされた際に、ドン・キホーテが、それは幻術にかかった者どものしわざだとか、わしはお前を助けたかったのじゃが、自分も幻術にかかっていたためにできなかったと言い訳した時、憤然としてこういうのだ。

「わしだとて、帯甲の騎士であろうとなかろうと、できたら、仕返ししたかっただが、できなかっただ。ただ、わしの見るとこをいうとね、わしを慰み者にしたあの連中は、おめえ様が言いなさるような幻術の化け物でも畜生でもなく、わしら同様の肉と骨でできた人間でがす」(正編第18、永田寛定訳、以下同じ)

度重なる失敗の数々を、ドン・キホーテがことごとく魔法のせいにするのを見たサンチョ・パンサは、或る時、魔法を口実にして主人をだましてやろうと思いつく。

ドン・キホーテはサンチョから思い姫ドゥルシネーアの噂を聞かされ、是非拝顔したいものだと思い、サンチョをドゥルシネーアのもとに派遣する。そこで、すっかり困惑したサンチョは、どうしていいものやらさんざん思い悩んだあげく、たまたまロバに乗ってやってきた百姓女をドゥルシネーアに仕立てあげることにする。

サンチョから紹介されて百姓女を見たドン・キホーテは、その女が余りにも醜く品がないので、これがとてもドゥルシネーアだとは思えないという。するとサンチョは、それはドン・キホーテが幻術にかかっているからであって、実際には、目の前にいる夫人は美しく高貴な女性なのだと言い張る。そういわれて、ドン・キホーテは、そうかもしれぬと思い直し、百姓女の前にひざまずいたりするのだが、当の百姓女は迷惑がって、「見なせえな、旦那衆が今時分、村の女にからかうつもりで、しなさることをさ」と罵るばかりなのである。

それでもドン・キホーテは礼儀正しく振る舞う。自分は魔法にかかっているのかもしれないと思うからだ。「サンチョ、わしが幻術師どもに、どれほど憎まれとるか、お前にどう思われるな。このわしに持つ、彼らの邪心とそねみがどこまで達しとるか、見るがよいぞ。わしの思い姫をありのままに見て、わしが覚えるはずの満足をさえ、奪ったではないか」

そういいながら、ロバから落ちた百姓女を、もう一度乗るように手伝ってやるのだ。「サンチョ、ドゥルシネーアをお前のいうアカネーアに、わしにはロバとより見えなかったのじゃが、お乗せしようとして、そばへ寄った時に、姫が生ニンニクの匂いをお放ちだったので、わしは、たましいを毒せられて、ふらふらになったのよ」

だが、ドルシネーア姫に対するドン・キホーテの思慕の感情は決して弱まらない。次に会うときには、ドルシネーア姫が幻術から解放され、本物の美しい姿であるところに出会いたい。こう思うのだったが、どういう風の吹き回しか、ドゥルシネーアにかかった幻術を解く方法があると言い出す。それは、サンチョ・パンサが、自分の尻を3300回鞭で叩くというものだった。

しかし、サンチョが自分の尻を鞭で打つなどとは、ちょっと考えられない。そこで、主人である自分がサンチョに替って尻をムチ打ってやろう。そう思いながら、サンチョのパンツを脱がせようとするが、サンチョは当然のことながら、猛反発する。そしてこのように言うのだ。

「王様を取り除けるでも据え付けるでもねえだ。わしは俺様の加勢をするだ。俺様はわしの主人だで」

つまり、自分に痛い目を合わせるようなものは自分の主人ではない、自分の主人は自分自身だと言っているわけである。

このように、不幸なドン・キホーテは、最後まで魔法から逃れることができないのだ。彼が魔法から解放されるのは、死の床に伏してからなのである。





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