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ソクラテスの弁明


ソクラテスがアテナイの法廷によって裁かれ、死刑判決を受けたのに対して、弟子のクセノポンとプラトンは師を擁護するための弁明の書を書いた。クセノポンは旅行先にあって裁判の様子を見てはいなかったが、プラトンの方は法廷での様子を身近に見ていた。したがって、プラトンの「ソクラテスの弁明」は、法廷におけるソクラテスの様子や、そこで自ら述べたであろう主張を、忠実に伝えているとされてきたのである。

我々はプラトンのこの著作を通じて、ソクラテスの人物像やその思想の一端について、詳しく知ることができると期待してもよいだろう。

まずソクラテスは何故、同胞のアテナイ市民たちによって裁判にかけられなければならなかったか。ソクラテスを訴えたメレトスらの告訴状には、「ソクラテスは犯罪者である、かれは天上地下のことを探求し、弱論を強弁するなど、いらざる振舞をなし、かつこの同じことを、他人にも教えている」とあった。(以下、テキストは田中美知太郎訳を用いる)

このようにソクラテスは、ある具体的な犯罪とか国家への反逆といった特定の行為について訴追されたのではなく、日ごろの言動や姿勢についてとがめられたのである。今日の感覚ではなかなか理解しがたいことであるが、当時のアテナイにおいては、民主制と僭主政治との軋轢、その背後にある民衆と貴族階級との階級的対立といったものが伏在していて、そうした争いが裁判という形で噴出すこともあった。だから、ソクラテスの訴追も、政治的な背景を持っていたというのが、歴史上の常識だ。

ソクラテスを訴えたメレトスらは、30人僭主政治を倒して台頭してきた人々である。かれらはソクラテスに、僭主政治への親近性を認め、それを理由に迫害しようとしたと思われる。実際30人僭主政治の指導者の中には、クリティアスのように、ソクラテスの教えを受けたものも含まれていたのである。

ソクラテスは、自分に向けられた訴追が二重の思惑を帯びていると理解する。一つは彼の長い間の活動を通じて、日ごろから彼を憎むようになった人びとの思惑で、彼らはソクラテスをソフィスト同様に、詭弁を弄する危険な人物と考えている。ソクラテスは彼らを第一の告発者と呼んだ。第二の告発者は、メレトスら、直接ソクラテスを訴えた人々である。彼らは国政にかかわる人々であった。

第一の告発者についてソクラテスは、「諸君の大多数を、子どものうちから、手中に丸め込んで、ソクラテスという奴がいるけれども、これは空中のことを思案したり、地下の一切を調べ上げたり、弱い議論を強弁したりする、一種妙な智恵を持っている奴なのだという、何一つ本当のこともない話をしきりに聞かせて、わたしのことを讒訴していた」が、困ったことにはその連中の名を、あの喜劇の中で彼を笑いものにしたアリストパネスをのぞいてはあげることができない。それほどその数は多く、そのうわさはまことしやかにいきわたっている。そうソクラテスは嘆く。

彼らのいっていることは何一つ本当のことではないのに、何故こんなうわさが広がってしまったのか、ソクラテスはこう自問して、それは彼がアテナイの、自分自身ではひとかどの智恵があると思い込んでいる連中の誤りを認めさせ、彼らが本当は無知な人間なのだと暴露し続けたことによって、彼らの憎しみを買ったからなのだろうと反省する。

ソクラテスの若い頃、カレイポンというものが、デルポイの巫女に、ソクラテスよりも智恵のあるものがいるかどうか尋ねたところ、誰もいないという答えが返ってきた。それを聞いたソクラテスは当惑して、「いったい何を神は言おうとしているのか、いったい何の謎をかけているのだろうか」と自問した。そして神のいうことを確かめようとして、アテナイ中に賢者の聞こえが高かった人々をたずね、彼らが自分より智恵があるかどうか、さまざまに質問を浴びせかけた。すると彼らのうち誰一人として、智恵があると認められるものはいなかった。

「つまり、こういう詮議をしたことから、アテナイ人諸君、たくさんの敵意が、わたしに向けられることになってしまったのです。」こうソクラテスは古い敵意の理由を解釈する。

「神だけが本当の知恵者なのかもしれないのです。そして人間の智恵というようなものは、何かもうまるで価値のないものなのだということを、この神託のなかで、神はいおうとしているのかもしれません、、、つまりわたしを一例にとって、人間たちよ、お前たちのうちで、一番智恵のあるものというのは、誰でもソクラテスのように、自分は智恵に対しては、実際は何の値打ちもないものなのだということを知ったものが、それなのだと、いおうとしているようなものです。」

当面の告発者であるメレトスらに対しては、彼らがソクラテスは「日輪は石、月輪は土だと主張している」といっているが、それはアナクサゴラスの説であって自分が主張したことはない、そのほかにも彼らの告発の理由はうそばかりだと、強く否定する。

だが、メレトスらが「ソクラテスは鬼神の類を認めている」としていることに関して、自らの神へのかかわり方について弁明する。ソクラテスの宗教意識がうかがわれる部分である。

ソクラテスは、自分はほかならぬ神の命令によって行動しているのだという。「わたしは何のことはない、少し滑稽な言い方になるけれども、神によってこのポリスに、付着させられているものなのです、、、つまりわたしは、あなた方を目覚めさせるのに、各人一人一人に、何処へでもついて行って、膝を交えて、全日、説得したり、非難したりすることを、少しも止めないものなのです。」

その神について、「わたしには、何か神からの知らせとか、鬼畜からの合図とかいったものが、よく起こるのです、、、子どもの頃から始まったもので、一種の声となって現れるのでして、それが現れるときは、いつでも、わたしが何かをしようとしているときに、それをわたしに差し止めるのでして、何かをなせと勧めることは、いかなる場合にもないのです。」

これは世に、「ソクラテスのダイモン」と呼ばれるものを語っている部分だろう。だがここでは、ソクラテスは自らの宗教意識を、これ以上掘り下げては説明していない。

さて、いよいよ罪否の表決が行われ、ソクラテスは有罪の判決を受ける。当時のアテナイの法廷においては、有罪に対する罰をどのようなものにするか、告発者と被告とがそれぞれに主張することができた。多くの場合有罪宣告を受けた被告は、あの手この手で裁判官の同情を誘い、罪が軽くなるように哀訴したといわれる。しかしソクラテスは、そのようなことをなすのは、自分の潔しとしないことであって、自分としては自分の支払い能力に応じた罰金が課されるように主張するだけだと胸を張った。その結果、ソクラテスは傲慢だとの印象を裁判官たちに与え、死刑の宣告を下されるのである。

死刑の決定は比較的僅かな差によるものだった。そこでソクラテスは、自分を無罪とした人々に感謝しつつ、有罪判決をしたものに、次のように呼びかける。

「さて、それでは、次には、わたしに有罪の投票をした諸君よ、諸君のために予言しておきたいと思う。なぜなら、わたしもいますでに、人間がもっとも良く予言するときにあるからです。つまり、死なんとするときにあたっているのです、、、

「諸君よ、諸君はわたしの死を決定したが、そのわたしの死後、まもなく諸君に懲罰が下されるでしょう。それは諸君がわたしを死刑にしたのよりも、ゼウスに誓って、もっと辛い刑罰になるでしょう。なぜなら、いま諸君がこういうことをしたのは、生活の吟味を受けることから、開放されたいと思ったからでしょう。しかし実際の結果は、わたしの主張をいわせてもらえれば、多くはその反対となるでしょう。諸君を吟味にかける人間は、もっと多くなるでしょう。彼らをいままでわたしが引き止めていたので、諸君は気づかないでいたわけなのです。そして彼らは若いから、それだけまた手ごわく、諸君もまたそれだけ、辛い思いをすることになるでしょう。というのも、もし諸君が、人を殺すことによって、人が諸君の生き方の正しくないことを、非難しているのを止めさせようと思っているのなら、それはいい考えではないでしょう。なぜならそういう仕方で片付けるということは、立派なことでもないし、また完全にできることでもないのです。むしろ他人を押さえつけるよりも、自分自身を、できるだけよい人になるようにするほうが、はるかに立派で、ずっと容易なやり方なのです。」

他方、自分に無罪の投票をした人々に向かって、ソクラテスはいましばらく話し合おうと呼びかける。それは主に、死についてであった。

ソクラテスは裁判に出かけるときにも、その進行している間においても、自分のやろうとしていることに、例のダイモンが反対しなかったことをあげ、自分のしたことは間違ってはいなかったし、これから死にゆくことについても恐れることは何もないのだと、改めて確信する。

死についてソクラテスは、次のように語る。

「死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは全くないといったようなもので、死者は何も少しも感じないのか、あるいは言い伝えにあるように、それは魂にとって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど場所を取り替えて、住居を移すようになるわけです。

「そしてもしそれが、何の感覚もなくなることであって、人が寝て、夢一つ見ないような場合の、眠りの如きものだとしたら、びっくりするほどの儲けものであるということになるでしょう。

「また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなものであって、人は死ねば、誰でもかしこへ行くという、言い伝えが本当だとするならば、これよりも大きい、どんなよいことがあるでしょうか、、、、オルペウスやムウサイオス、ヘシオドスやホメロスなどと一緒になることを、諸君のうちには、どんなに多く払っても、引き受けたいと思う人があるのではないでしょうか。わたしは、いまいわれたことがもし本当なら、何度死んでもいいと思っているからです、、、それらの人たちと、かの世において、問答し、親しく交わり、吟味するということは、計り知れない幸福となるでしょう。何にしても、そのために死刑にするというようなことは、かの世の人たちは、きっとしないでしょう。というのは、他の点でも、かの世の人は、この世のものに比べて、もっと幸福にしているのですが、特にまた、その後生においては、もし言い伝えが本当だとすれば、彼らはすでに不死なのですからね。」

この言明からは、ソクラテスは死を恐れておらず、いやむしろ、死後の世界が存在し、そこにおいてはこの世にあるとき以上に至福の時間を持つことができるのだと、信じていたことを思わせる。その信仰がどのような文化的背景からでてきたものなのか、それは別途研究すべき課題だろう。

ソクラテスは最後に次のように言って、毒杯を飲むために死の床に赴いたのである。

「しかし、もう終わりにしましょう、時刻ですからね。もう行かなければならないのです。わたしはこれから死ぬために、諸君はこれから生きるために。」





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