知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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スピノザの形而上学:論理的一元論


スピノザの世界観は、神の形而上学ともいうべきものである。スピノザは、人間の精神の働きを含めた、この世界のあらゆる営みや出来事を神の働きあるいは現われとして説明する。言い換えれば、全体としての世界が神という単一の実体をなしており、その部分はいずれも単独では存在しえず、全体の一部としてのみ存在すると説明する。このような教説を、バートランド・ラッセルは論理的一元論と表現した。

スピノザが神という概念を用いて、この世界を一元論的に説明しようとした態度は、デカルトの二元論を克服するひとつの試みとして、哲学史上では一定の意義をもったかもしれない。しかし、それは今日の科学的な思考法にとっては、到底受け入れられるものではないと、ラッセルはいっている。

スピノザが持ち出している実体という概念は、デカルトやスピノザの時代までは意味を持ったかもしれないが、それは形而上学が世界の説明原理として一定の意味をもっていた限りであるに過ぎない。今日では誰も形而上学によって世界を説明しようとはしないし、世界の説明原理として実体概念などを持ち出すものはいない。

ラッセルのこの批判を脇へおいていえば、スピノザの哲学は、西洋の思想の歴史の中での、ある一つの方向性を極限まで押し詰めたものだといえる。

それはまず、初期のギリシャ哲学に始まる存在論の巨大な流れの上に立っている。デカルトは思考と物体とを分裂させ、しかも思考による認識の学つまり認識論に優位を与えた結果、存在に関する学としての存在論を軽視した。スピノザはこの存在論を改めて重視することで、世界を人間の思考の随伴者としてではなく、それ自体に根拠を内有する独立した実体としてとらえなおしたのである。

次にスピノザの思想には、パルメニデスに遡る、世界を一元的に説明しようとする態度が脈打っている。パルメニデスやプラトンは、この一元的な説明原理として、精神的なものを考えていた。プラトンの場合にはイデアが、世界を説明するための一貫した原理になったが、スピノザはそれを神に置き換えたのだといえる。

しかもスピノザの説明法は、プラトンとは比較にならぬほど緻密で徹底したものである。スピノザは究極の実体としての神の存在を証明すると、そこから下降する形で、世界のあらゆる事象について、演繹的に証明していく。そこにはいささかの漏れもなく、世界についての完結した説明となっている。体系というものが意味を持つとしたら、これほど完璧で壮大な体系はないであろう。

世界観あるいは形而上学としてのスピノザの体系には、三つの重要な概念がある。実体、属性、様態である。

実体とは、その存在のために他のものを必要としないものである。実体をこのように考えれば、それは必然的に無限であって、他のものによって限定されたり、条件付けられたりしないはずである。ところで無限はいくつもあるものではない。もしそうなら、無限のもの同士が互いに限定しあうことになり、無限の概念と抵触するからだ。こうして無限の実体は一つであることが強調され、それが神であることが証明される。スピノザによれば、この世界にはただひとつ、神という実体が存在するだけなのである。

属性とは、実体の本質を構成していると人間の悟性が認めるところのものである。その属性のうち、我々は思考と延長とを認めているが、実体の属性はそれにとどまるわけではない。そうだとすれば、実体の本質規定は限定されたものとなり、実体の永遠性と矛盾することになろう。この二つの属性は、それ自身では無限である実体が、すべてを思考と延長の相のもとで見ようとする人間の悟性の主観的認識に現れる形態であるに過ぎない。

ところで思考と延長というこの二つの属性相互の関係については、スピノザもデカルト同様独立であると考えていた。物質的なものは物質的なものしか原因にもつことができず、精神的なものは精神的なものしか原因に持つことができない。精神が物質に作用したり、その反対に物質が精神に作用したりすることはない。しかしその両者には、平行関係と思われるものも存在する。たとえば円の観念と現実の円とは同じものであるが、それは同一の実体が、思考にあっては観念として、延長にあっては現実の円として、異なった属性のもとで現れるのである。

様態とは、実体という普遍的存在が特殊化した個別的な存在形態である。個々の事物や観念は、普遍的な実体が個別化したものであり、その限りで限定された有限な存在である。そして我々が世界という言葉で理解しているものは、この実体の個別化した様態をさしていっているのである。

以上のように、スピノザの世界観は、唯一の実体に基づいて、世界全体を一元論的に説明しようとする壮大な体系をなしている。その体系を支えているのは、論理的な必然性であり、それにもとづく演繹的な説明である。

このようなことからして、スピノザの体系を論理的一元論というには、それなりの理由があるといえる。



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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2007-2008
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