知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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スピノザの神


デカルトの心身二元論によれば、人間は精神という実体と延長としての身体という実体とが何らかの形で結合したものであった。そして神は、これら二つの実体に根拠を与えるところの第三のしかも高次の実体とされた。だがスピノザにいわせれば、精神と身体とは実体とはいえない。なぜなら、デカルトも認めるように、実体とは唯一にして無二の、それ自身の中に自分の根拠を有する存在であって、厳密にそういえるのは神しかないからだ。

スピノザによれば、この世界でただひとつ自己充足的で確実な実体は神のみである。それ以外のすべてのものは、神に依存して存在している。我々人間の精神も、また身体も、そのほかのすべての事象も神に存在の根拠を有している。神は無限の属性をもっていて、その属性の一つ一つの表れが、この世界で我々が個物とかそれについての人間の認識とかいっているものなのだ。

デカルトは、人間の心の働きとそれが対象としている事物とを、まったく異なった実体として区別した上で、それら相互の関係について苦しい議論を展開していた。だがスピノザによれば、思考する実体と延長した実体とはそもそも同一の実体であって、それが時にはこの属性、時にはあの属性として現れるだけなのである。その同一の実体が神をさすことはいうまでもない。

スピノザは神を前にして、人間の存在者としての主体性を消去してしまったわけである。

スピノザは、人間の精神とは人間の身体の観念あるいは認識に異ならないといっている。どういうことかというと、スピノザはデカルトのように精神と身体とを峻別した上で、その両者の関係を考えるのではなく、人間の精神も身体も、神という実体の属性としての表れなのであり、もともとひとつの実体であったものがその属性を通じて、精神として現れたり、身体として知覚されるにすぎないと考えるのだ。

神という実体においては、精神と身体とは融合しており、それが人間という個別的な場において、精神としてまた身体として認識されるというわけである。

このように、神においてはすべての観念とすべての対象とが完全に一致している。この観念と対象の連鎖は無限に広がっており、それを観念の面から即して捉えると無限の知的空間とでもいうべきものが存在している。それが神の存在者としてのあり方である。

我々人間が何かを知覚しているというのは、この無限の知的空間の中で生じている局所的な知覚の一部なのだ。つまり人間を含めた個別的な存在者は、神の活動の局所的な現われなのであり、神は我々一人一人の動きの中に遍在している。

では、神に誤謬がありえないのに、なぜ人間は誤りやすいのか。この問いに対してスピノザは、全体としての神が客観的であのに対して、その局所的な現れである人間の精神は主観性を免れぬとからだという。主観性とは制約された状態をさす言葉である。制約されたことによって、主観性は情報不足や情報漏れを免れない。そこから誤謬といわれるものが生じるが、それはあくまでも主観の側から見た見方であって、神にとってはすべては必然であり、したがって真理である。

善や悪についても同じことが言える。我々はあることがらが自分自身から生じている限りそれを善とし、自分の外部からやってきて自分の意にならないことがらが起こったときにそれを悪という。しかし人間にとって外的な条件と思われるものは、人間が局所的な存在であることに起因している。全体としての世界には外部というものはないのであるから、したがって悪も起こる余地をもたない。神においてはすべては善なのである。

このようにスピノザの説は、人間を含めて宇宙のすべてのものは神のの属性の一部が現れたものだという考えに立っている。一種の汎神論といえるだろう。またスピノザは、全体としての神を重んじる余り人間の主体性を極度に軽視したとも受け取られる。とりわけスピノザは精神の自主性を尊重すること甚だ薄かった。そんなところから唯物論者ともいわれた。

だがスピノザの神への愛は、どんな宗教家よりも強かったのである。神は我々一人一人にとって外的な信仰の対象ではない。神は我々自身の中にそのままに現れているのであり、したがって我々自身に命を授けてくださっている。有機体の一部が全体あって初めて存在できるように、我々は神が存在の一部なのである。だから我々は神を愛すべき十分な理由がある。精神の最高善とは神についての知識であり、最高の徳とは神を知ることである。こうスピノザはいう。

こんなところから、スピノザを称して「神に酔える哲学者」というようになった。だがスピノザの神は、キリストの神を含めてこの地上で信じられているどんな神とも似ていなかった。彼の思想が長い間誰からも評価されなかった所以である。





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