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正義の哲学的意義について


過日小生は、「民主主義と正義」と題する小論の中で正義概念の政治的な意義について考察した。その小論のテーマは、民主主義と自由との関係を明らかにすることだった。民主主義と自由とはかならずしも深い結びつきがあるわけではなく、歴史的に言っても、両者の結びつきは必然によってというよりは、偶然によってというほうがあたっているようである。というのも、民主主義は、カール・シュミットもいうとおり、独裁とも結びつきうるからだ。一方自由の擁護を中核とする自由主義は、独裁とは正反対のものであるが、自由の際限のない追及は、格差社会の進行を促し、社会に深い分断を招き入れる傾向をもつ。したがって、自由主義と民主主義とが理想的な結びつきを実現するためには、自由の節度ある行使ということが必要になる。その節度ある行使を実現するためには、自由という概念を、それよりも一次元高度の概念によって制約する必要がある。正義という概念は、その高度の概念、小生はそれを上位概念といったが、自由を限定するための上位概念なのである。

自由は際限なく行使されるべきものではない。それは一定の制約に従うべきである。その制約とはなにか。正義である。自由は正義を実現するために行使されねばならない。すくなくとも正義に反してはならない。これが、自由の上位概念としての正義が主張するところのものである。このように正義によって限定された自由主義が民主主義と結びついた時に、理想的な政治を語ることができる、というのがこの主張の意味であった。

しかし、正義とはなにか。正義という概念の内実はどのようなものか、ということについては、曖昧なところがある。先の小論では、政治的な議論の文脈からして、平等と同じようなものとして正義を考えていた。政治的な正義とは、人間が平等に扱われることであり、一部の人間が不当に優遇され、その他の人間が不当に抑圧されることは正義に反していると考えたわけである。しかし、この定義には同義反復的なところがある。不当という言葉は、そもそも正義を前提にしたもので、それを使って正義を定義しようとしているからだ。トートロジーに陥らないためにはどうしたらよいか。

正義という言葉には、正しいことという意味が含まれている。だから、正義の理解は、正しいという言葉の意味をどうとらえるかに係わっている。正しいとはどういうことか。これについて共通の理解がないと、その言葉を用いた議論は曖昧なものになる。ところで、政治の世界に正しいという言葉は相応しいか、ということについては、確固たる共通の信念は、あるようでないようでもある。正しいという言葉について、共通の信念がなければ、正しいあり方としての正義がどのような内実のものなのかについても、曖昧にならざるをえない。

そこで、正義という言葉を、政治的な文脈ではなく、哲学的な文脈において厳密に定義しておく必要がある。正しいこととしての正義を哲学的に基礎づけたうえで、それを政治について適用することで、政治的な概念としての正義も厳密になるであろう。

正しいという言葉には、色々な意味がある。人間の認識について、その認識が対象をありのままに捉えている事態をさすこともあるし、人間の行為について、その行為が人間社会の道徳的な要請にかなっている事態をさす場合もある。あるいは、人間相互の関係において、その関係が調和をもたらすような事態をさす場合もある。子どもが父親を大事にすることは正しいことであるし、個人と社会とが調和のとれた関係にあることは正しいことだ、というふうに言われる。

正義がテーマになる場合には、どのようなレベルの正しさが問題になるのだろうか。なかなかむつかしい問題で、スマートな答えはない。だから、正義を正面切って定義しようとする試みは、完全に成功したとはいえない。

ここで、正義の概念を哲学的に基礎づけようとした試みとして、プラトンとアリストテレスを取り上げよう。まず、プラトン。プラトンは、正義を国家と個人の二つの領域について考える。国家にも、個人にも、それぞれあるべき姿がある。そのあるべき姿にかなっているのが、正義が実現された状態だ、そうプラトンは考えたのである。そのあるべき姿というのは、プラトン一流の理想であって、それがそのまま今日の議論にも適用できるかは、おのずから別な問題であるが、要するに国家なり個人なり、それぞれあるべき姿との一致が正義であると考えるわけである。これは、今日的な議論に即して言えば、人間性に合致したことが、正義であるための最大の条件だといえるのではないか。人間性との合致、それが正義だというわけである。

アリストテレスの正義論は、配分的正義とか矯正的正義とか呼ばれるものを議題としている。人にはそれぞれその人固有の持ち分があって、それが実現された状態が正義になかった状態であり、踏みにじられた状態は不正義であるから矯正されなければならないとする。このアリストテレスの考え方は、人間を財産の所有者と定義づける前提の上に成り立っているので、政治学の議論に馴染みやすく、政治学における正義概念に強い影響を及ぼして来た。今日にいたるまで、大方の正義論はアリストテレスの定義を踏まえていると言ってもよい。

アリストテレスの定義では、正義とは功利主義的なものにならざるを得ない。しかしこうした功利主義的な理解では、正義は自由の暴走を止めることが出来ないだろう。自由もまた正義によって制約されるべきだというのが小生の立場であるから、アリストテレス的な正義の概念は不十分だということになる。そこで、プラトンの正義論を議論の土台に据えたいと思うのだが、その場合、人間性をどうとらえるかが最大のポイントになる。人間性についての理解が共通したものとして成立していないと、実のある議論にはならないだろう。

だが、人間性とはなにかという問題は、簡単なようでなかなかむつかしい事柄だ。今の時点でせいぜいできることは、人間性に反した事例を指摘することくらいだろう。たとえばナチスの行ったユダヤ人に対するホロコーストが人間性に反したことだったとは、誰にも異論がない共通の了解になっている。そうした指摘は際限なく行えるが、その際限のない指摘から、人間性についての完全なイメージが固定されてくるかといえば、かならずしもそうではない。これこそ人間性という概念の本質的な内実だと胸を張っていえるようなことは、残念ながらないというのが現状だ。だからといって、人間性の概念をいい加減な理解のままとどめておいてもよいということにはならないだろう。人間性についての、人類共通した理解を深めていくこと、それが人類に課せられた最も重い課題ではないか。




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