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時間について


前稿で、真理は時間のなかで成就するといい、時間は人間の有限性に根差しているといった。その場合、時間とは人間の内部に生起する現象だと捉えられていたわけである。こういう捉え方には異論があろう。時間は、人間とは無関係に、人間が存在する前から存在したし、人間が滅んだあとでも存在するだろう。第一、科学の世界では、人間が存在を始めたのはごく最近のことにすぎない。せいぜい数百万年前に遡るにすぎない。ところが人間が生息する地球という惑星は、40億年も前から存在しており、その地球が属するこの宇宙は、130億年前から存在している。それに比べれば、人間の存在した期間など一瞬に等しい。だから、時間を人間内部の、人間固有の現象だなどというのは、ナンセンスそのものだ。時間は人間とは無関係にある客観的な現象だ、というのが、常識的な見方ではないか。

時間を、人間と関連付けて捉えたのはアリストテレスだった。アリストテレスは、時間を存在のカテゴリーの一つとして提示したのだったが、カテゴリーというのは、人間の判断作用に伴うものとされたので、時間もまたそのカテゴリーのひとつとして、人間の判断作用に伴うものとされたわけである。もっともアリストテレスの場合には、人間の判断作用は、客観的な存在である対象と一致しているので、カテゴリーは人間の判断作用であるとともに、存在の様相でもあった。だから、時間も、人間の判断作用の一つであるとともに、存在がとる在り方の一つの様相でもあったわけである。言ってみれば、時間において、人間の判断と客観的な存在とが融合するのである。

時間を、客観的な存在から切り離して、人間に固有なものだとしたのはカントだった。カントは、人間の認識作用を、対象を、人間にアプリオリにそなわっている枠組みに当てはめることで成立すると考えた。人間に対して、所与のものとして示される感覚の内容は、それ自体では、知的な認識を成立させることがない。知的な認識が成立するためには、所与の現象を人間の側の認識の枠組みに当てはめる必要がある。この枠組みのことをカントはアプリオリといったわけだが、そのアプリオリは、人間に生まれながらに備わっているものである。人間はこのアプリオリなカテゴリーを通して、現象から知的な認識を引き出す。この現象は、人間の感覚として与えられるもので、それは客観的な対象となんらかの関連があるとしても、人間にとって可能なのは、現象として現われるものの認識にとどまり、現象の原因となる対象、それをカントは物自体というのだが、その物自体は直接捉えることは出来ないとした。人間に捉えることができるのは、感覚において与えられる現象だけであり、しかもそれをアプリオリなカテゴリーにあてはめて認識する。対象はいわば二重のヴェールを通じて、認識にもたらされるのである。

カントによって人間の認識作用に関連付けられ、対象の客観的なあり方ではなく、人間の主観的な認識枠組みだとされた時間は、ベルグソンによってさらに、人間の意識の流れというふうに整理しなおされた。人間には意識がある。というより、意識が人間の本質なのである。その意識というのは、カントがいうような形式的で論理的なものに止まらない。それは生命そのものである。しかして生命としての意識は、ある厚みをもって流れゆくものである。その厚みの本質が時間なのである。人間は時間として存在している。時間の流れ、それは意識の流れであり、その意識の流れが人間の人間としてのあり方を規定する。人間は時間のなかで伸び広がりつつ生きているわけである。つまりベルグソンにあっては、時間は人間の存在の仕方そのものなのである。

ハイデガーは、さらに一歩進んで、時間は人間の有限性に根差していると考えた。人間の意識はたしかに時間のなかで展開するが、もし人間が不死の存在で、永遠に生き続けるものならば、人間にとって時間が問題となることはないだろう。なぜなら、永遠に亡びないもの、絶対に変わらないものについて、時間を問題にする意味はないからである。時間というものは、始まりがあって終りがある、一定の長さの間の出来事について、意味を持つものなのである。もし宇宙に始まりもなく終りもないとしたら、宇宙の存在を時間で測るということなど意味がない。時間というものは、有限な存在について意味をもつものなのであり、しかも人間の有限性に根差していると言うのがハイデガーの考えであった。

ハイデガーの時間論は、人間の存在のあり方と密接に関連付けながら展開されている。それゆえ、存在論としての性格が強い。時間は、人間の存在様式を根本のところで規定しているとするわけである。したがって時間論は存在論の一分野、というより存在論の中核、存在論そのものと言ってよい。真理は存在の顕現だといったのはハイデガーだが、その存在の顕現は時間のなかで成就する。時間のなかでというよりも、時間としてといったほうが正確かもしれない。少なくとも、人間という存在者については、その存在は時間として成就するからである。一人の人間が生きたということ、それをあらわすのが時間という概念なのである。

一方、時間を人間の認識作用と深く関連付けて考えたのがレヴィナスである。レヴィナスは、認識とは時間なのだと言っている。ハイデガーが人間の存在全体を時間のあらわれだとしたのに対して、レヴィナスはとりあえず、人間の認識の作用を時間だとするのである。人間の認識作用が時間のなかで展開することは、前稿「弁証法について」でも触れたとおり、人間の認識作用が有限なことからくる必然的なことだ。プラトンのように、人間にとってイデアが瞬間的に捉えられるとする考えは、認識の事実と合致しないので、いまでは、人間の認識は時間のなかで展開されているとする見方は常識に近いものになっている。その見方をレヴィナスは、洗練された表現で展開してみせた。もっともレヴィナスの文章は極めて難解なのだが。

ところで日本人は、時間について、時を測るという言い方をする。そこに日本人の、時間についての独特の捉え方が反映しているようである。日本人の世界観は、ユダヤ=キリスト教文化圏とは異なって、世界を、始まりがあり終りがある有限なものだとは考えなかった。世界というものは、明確な始まりがあるわけではなく、永遠の昔からなんとなくそこにあった。また、終わりというものも考えられない。世界は、自分が死んだ後も永遠にそこにあり続けるだろう、そう殆どの日本人はいまでも思っている。ということは、世界の有限性について考えないわけである。そこで、時間というものは人間を含めた世界の有限性に根差していると考えるユダヤ=キリスト教的な立場からは、日本人には果たして本当の時間意識が成立するのか、そういう疑問が出て来ると言う。

たしかに日本人は、世界は無限だと思っているが、しかし人間の命が無限だとは思わなかった。いったん死んだ命が生き返ると考えたことはあったが、永遠に生き続けるとまでは考えなかった。日本人にも、人間は有限な存在として映ったのである。その人間の有限性の自覚が、日本人にも一定の時間の概念をもたらしたのだろうと思う。しかしその概念は、人間の有限性とだけ関連しているので、とりあえず個別の人間、たとえば私について問題となるにすぎない。せいぜい、私を含めた身近な社会について、問題になるにすぎない。そういうところでは、時間の観念は実用的にならざるを得ないだろう。時間とは、とりあえず私が直接向き合うことになる狭い世間を律するための手段のようなものになる。時間を測るというのは、そうした手段性を物語っているわけである。




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