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直線的時間と円環的時間:時間と精神病理


前稿「時間について」では、西洋哲学史における時間論の変遷と、日本人による時間の捉え方について簡単な考察を加えた。そこから浮かび上がってきたのは、時間というものは世界の有限性に根差しているという認識であった。ユダヤ・キリスト教文化において、世界が有限であると認識されているのは見やすいことであるが、日本人は世界を有限だとは考えていなかった。世界には始まりもなければ終りもなく、永遠に存在し続けると考えた。そういう考え方においては、時間の観念は成立しないはずなのだが、日本人にも時間の観念はある。それは日本人が、世界は永遠・無限と考えながら、そこに生きている人間は基本的には有限な存在と考えたことに基づく。人間の生命が有限なら、その人間を軸とした時間の観念が成立する。

ところで、時間の観念には直線的な時間と円環的な時間との対立があるとよくいわれる。直線的な時間とは、過去から現在を経て未来に向かう一方的で後戻りしない時間の流れをいう。その時間観念は、世界の有限性に根差している。世界はある時点から始まり、一定の時点で終わると考えるからこそ、時間は直線的に流れると思量されるわけである。それに対して円環的な時間とは、世界には始まりもなければ終りもなく、同じことの堂々巡りだと考える。いわば円環のように、始まりの点は終りの点と一致するのである。そして円環のように、永遠に循環すると考える。

直線的な時間観念は、ユダヤ・キリスト教文化によって育まれた。ユダヤ・キリスト教文化は、世界は神によって創造されたと考える。無限な存在である神が有限な世界を創造したと考えるわけである。だから、世界には当然のこととして始まりがある。そして世界は有限なのであるから終りもある。世界のイメージとしては、過去のある時点で始まり、そこから現在を経て、ある未来の一点に向って直線的に時間が過ぎていくということになる。世界の終わりにあたっては、神による最後の審判がなされ、すべての人間は生前の行いに応じて裁かれる、というふうに考えられている。世界の終わりにあたって、彼らが裁かれたあと、彼らの魂はどうなってしまうのか。また、世界はどうなってしまうのか。有限な世界が消滅した後には、果たして何が残されるのか。我々日本人には、世界の終わりというイメージはなかなか思い浮かばない。しかしユダヤ・キリスト教文化にあっては、世界の終りのあとには、神によって祝福された無限の存在が永遠に存在し続けるはずだと考えるようである。

日本人は、基本的には、世界というものには始まりもなければ終りもない、永遠の昔から何となくそこに存在し、これからも永遠に存在し続けるだろうと考えている。だから、ユダヤ・キリスト教文化のように、時間を直線的に捉えるよりは、円環的に捉える傾向が強い。無論日本人にも直線的な時間のイメージはあるが、それは自分を含めた人間とその周囲にかかわる限定された環境について成り立つことであって、世界全体についてのイメージではない。世界全体に関しては、我々日本人は、円環的な時間の観念を抱いている。世界は永遠に流転するというのが、我々日本人の基本的な考えなのだ。仏教が我々日本人の心性に訴えかけやすいのは、仏教の輪廻転生思想と、輪廻からの離脱としての涅槃の境地とが、我々の持つ円環的な世界イメージに合致するからだ。

時間観念の成立については、精神病理学者の中井久夫が興味深い説を展開している。中井によれば、人類が時間観念を持つようになったのは、農耕社会の成立以後のことだという。農耕は、農作物の管理を伴なうが、それの核心となるのが時間の管理である。しかもそれは、農耕の始まりとしての播種に始まり、生育の管理を経て、終わりとしての収穫まで、一貫した時間の管理からなっている。農耕とはだから時間の管理だといえるのであり、そこから自ずから時間についての厳密な意識が成立した。それが我々人類にとっての標準的な時間の観念として結実したというのが中井の見立てである。そんなわけで農耕以前の社会、それは狩猟採集文化の社会といってよいが、そのような社会では、別な形での、いわば原始的な時間観念しかなかった。それを中井はカイロスとしての時間と言い、厳密な意味での時間観念であるクロノスと対立させる。クロノスとしての時間は、過去から現在を経て未来へと一直線に流れてゆく直線的な時間である。それに対してカイロスとしての時間は、現在に固着した時間である。それは過去を伴なっておらず、未来にもあまり開かれていない。

中井の分類におけるクロノスとしての時間が、直線的な時間だとすれば、カイロスとしての時間は円環的な時間といえるかというと、そうではない。中井には円環的な時間という分類項はない。中井のいうカイロスとしての時間は、現在に固着するだけで、運動を伴なっていない。だから円環運動もおきようがない。いわば停止した時間なのだ。あるいは閉じられた時間といってもよい。

ところで、時間と精神病理との関連を追及したものとしては、木村敏の研究もある。木村敏は、分裂病、鬱病、癲癇という三つの精神病理類型について、それぞれが時間との独特な関係を持っていると指摘した。未来に深くかかわり、いわば未来への不安にかられることが分裂病の本質をなしていると考えた。その分裂病の特質を木村は「アンテ・フェストゥム」という言葉で表現したが、これは祭りを前にした精神の高揚を意味している。それに対してうつ病は、過去へのこだわりから生じる。自分の過去を後悔し、とりかえしのつかないことをしたという罪責感がうつ病の本源となっている。うつ病患者はつねに、「あとの祭り」というような喪失感に悩まされ続けているというのである。癲癇はこられと違って、現在への固着に根差している。癲癇患者は、瞬間としてのいまの中で燃え尽きようとしている。そうした状態を木村は「イントラ・フェストゥム」と呼ぶ。癲癇患者はいつも祭りのさなかにいるような状態なのだという。

木村の研究は、時間を有効に管理できないことが精神病理につながるという立場だ。精神病理はだから時間の病ということになる。人間は、(正常に)生きていくためには、社会的に成立している共通の時間観念をもたねばならず、でなければ正常な精神状態と見なされない。正常なというのは、あくまでも科学上の操作概念であって、一定のメンバーにとって共有されているというほどの意味である。普通は、そうした共有概念からの逸脱は、かならずしも異常扱いされるわけではないが、時間については、それが人間関係を律する根本的な尺度になっているということもあり、正常からの逸脱はなかなか許容されない。それゆえ、共有されて常識となっている時間観念から逸脱すると、ただちに狂人扱いされるわけである。

木村の議論は、時間を直線的に捉えたうえで、その直線からの離脱が精神病理につながると見ているわけである。円環的かつ循環的な時間は考慮に入れていない。おそらく、円環的な時間からの逸脱という考えが成り立ちにくいからだろう。円環からの離脱は、輪廻転生からの脱却を想起させやすい。ところが、輪廻転生からの脱却は、望ましいこととはされても、決して精神的な異常とは考えられない。それゆえ、精神病理の分野では、円環的な時間は重視されないということなのだろう。




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