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世界観の東西比較


一時期世界観という言葉が流行った。世界観と漢字で書くと、文字通り世界についての見方と言う意味になる。ドイツ語でも Weltanschauung と書いて、やはり世界についての見方というような意味合いを持たされている。しかし英語圏では、こうした言葉はあまり使わないようだ。フランス語圏でも積極的には使われない。そうしてみると、この世界観という言葉は、ドイツ語圏とその影響を強く受けた日本の哲学業界においてもっぱら使われているとも言えそうだが、しかしだからといって、他の国の思想界で世界観に相当するような考えがなかったかといえば、そうでもない。どんな民族であっても、世界についての基本的な捉え方というものはあるものだ。それがないと、自分が生きていることの意味がわからなくなるだろう。何故なら人間は一人で、しかも裸の状態で生きているわけではなく、世界のうちで他の人間とかかわりあいながら生きているからだ。

どんな民族でも世界観に相当する思想を持っている。それらには世界とそこに生きる人間についての基本的な了解が盛り込まれている。その了解は、宗教という形を取ったり、思弁的な思想という形を取ったりする。世界中に分布する民族には、すぐれて宗教的な民族もあれば、思弁を好む民族もあり、また実用性を重視する民族もある。それらの相違に従って、世界観もさまざまな形をとる。宗教的世界観、思弁的世界観、実際的世界観といった具合だ。ついてはそうした世界観を相互に比較しながら、それぞれの特徴を論じたいと思うのだが、すべてにわたって論じることは手に余るので、とりあえずユダヤ・キリスト教的な世界観と日本的な世界観との比較をしてみたい。

ユダヤ・キリスト教的な世界観の根本的な特徴は、世界を唯一神の手によって、いわば人為的に創造されたと見ることである。その唯一神の捉え方は色々あるが、要するに人間の理想形が投影されたものだ。人間がものを作るように、唯一神も世界を創造した。その世界は、創造という始まりがあるのだから、有限である。有限であるということは終りがある、ということだ。そういうわけで、ユダヤ・キリスト教的な世界観にあっては、神によって作られた有限な世界のなかで、人間が神の似姿として、その有限な世界に働きかけ、世界を支配するというようなイメージが優位になる。人間はこの世界の主人公として、世界という客体に向って、それに積極的に働きかける主体として現われる。そこから極めて人間中心の世界の見方が浸透する。世界とは、人間によって働きかけられ、人間に都合のいいように変革されるような対象的世界なのだ。こうした世界観は、マルクス主義において典型的な形をとる。マルクスにとって世界とは、人間が働きかけて変革させるべき外的な対象なのである。

これに対して日本人は、世界が人為的に創造されたなどとは思っていない。たしかに記紀神話には、イザナギ・イザナミの二柱の神々が大八島を作ったということになっているが、それは無から世界を作ったという意味ではない。世界はすでにそこにあって、その世界の内部で大八島を作ったに過ぎない。しかも大八島は、無から作られたのではなく、すでに存在した材料を用いて作られたということになっている(アメノヌボコの話)。イザナギ・イザナミよりすっとさかのぼって、アメノミナカヌシ以下の造化三神についてみても、世界はこの三柱の神によって人為的に作られたとはなっていない。世界は、この三柱の神が登場する以前から、なんとなくそこに存在していたということになっている。

つまり日本人にとっては、世界は創造されたものではなく、自然に生成したものなのである。世界は神々が登場する以前より、いわば永遠の昔よりなんとなくそこにあった。日本人はユダヤ・キリスト教文化におけるように、世界に始まりがあるなどとは思っていない。世界にはこれと指摘できるような始まりなどはなく、また終りもない。終りがあるということは、有限で、前後を閉じられたものについて言えることで、無限であらゆる方向に開かれた存在については、言えないのである。そのような存在は無限なのであるから、永遠に存在し続けるのである。

ユダヤ・キリスト教文化にあっては、神の似姿としての人間は、世界に対して積極的に働きかける。そういう人間のイメージからは主体性という概念が生まれる。この主体性こそはユダヤ・キリスト教文化の合言葉である。人間は主体として世界と他の人間に立ち向かう。彼の世界認識は主体としての自己から出発して、世界を自己の内部に統合する。そこにはいかなる意味での受動性もない。人間とは能動的な生き物なのであって、その能動性が人間の主体性を基礎づけるのだ。ユダや・キリスト教文化に色濃く見えるエゴセントリックな人間観は、こうした主体性を反映したものとも言えるのである。

主体性はまた、人間と神との関係にも持ち込まれる。特にプロテスタント系の思想にあっては、人間は主体的に神と直接に向き合うことが求められる。神と直接向き合うことで、人間は自分が神の似姿としてできているという確信が得られる。それは神との一体感となってあらわれる。その一体感が人間に主体としての万能感をもたらすことにもなる。

それに対して日本人は、自分が神の似姿などとは毛頭思っていない。だいたい日本人には、唯一神的な神のイメージはない。日本人にとっての神は、世界の創造者でもなければ、人間の内心を支配するような存在でもない。日本人にとっての神は、八百万の神という言葉があるように、多分にアニミズム的なものである。アニミズムは、万物に神が宿っていると考える。日本人はそこまで単純ではないと言われそうだが、日本人の神がせいぜいご先祖様の理想化されたものだとは指摘できる。日本人の神は、唯一神でもなければ、また世界を超越した存在でもない。世界内存在として、生きている人間たちと世俗的なかかわりをもっている存在者なのだ。

ユダヤ・キリスト教における神のイメージが父親のイメージを投影したものだとはよく言われることである。おそらく発生的にもそうなのであろう。ユダヤ・キリスト教文化は、家父長制の影響が強い地盤から生まれた。ユダヤ教もキリスト教も、パレスティナから生まれたが、大昔のパレスティナは、放牧を主とする文化で、そこから強固な家父長制が生まれた。そうした事情はイスラム教においても同様である。イスラム教も一神教だが、もともとはユダヤ教やキリスト教と同じ地盤から生まれて来た。その地盤に含まれていた家父長制の影響が、唯一神への帰依として宗教的な実を結んだということだ。これらの宗教における神は、家父長制における父親のイメージと強く結びついているのである。

それに対して日本人の神は、峻厳な父親のイメージとは結びついていない。反対に母親のイメージが強い。天照大神にしても女性である。それは日本人の文化の基礎が農耕社会にあったことと無縁ではないと思う。農耕文化というのは、放牧文化と比べて父権は強くならないようである。日本の場合にはそれに加えて、母系社会が長く続いたという特殊性もある。そうした特殊性が強く働いて、日本人独特の神のイメージが生まれたのだろう。日本人にとって神とは、基本的にはご先祖様なのであって、そのご先祖様は男ばかりとは限らないのである。

このように日本人の世界観は、多神教的な宗教とならんで、人間の主体性に拘らない受動的な生き方をよしとする態度を育んできた。日本人の受動性は世界的に見て非常に際立ったあり方で、こんなにも主体性のない民族はないと揶揄されるほどだ。日本人はなにかにつけ、長いものには巻かれろと言うが、これは日本人の非主体的で受動的な生き方を象徴した言葉ではないか。




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