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思考の構造


前稿「意識と無意識」で、フロイトが無意識を発明した時、哲学界はこれを無視したと書いた。そしてその無視には理由があったとも書いたが、その理由についてもう少し詳しく見ておきたい。人間の思考を理性の働きと結びつけ、外界の表象である感覚的な与件が理性の働きと結びつくことで人間の認識、つまり思考が行われると考えたのはカントだったわけだが、それ以来人間の思考は、基本的には理性と強く結びついて、人間の自主的な、つまり意識的な営みであるというふうに考えられるようになった。だからそこには無意識が介在する余地は全くなかったと言ってよい。それが、哲学界がフロイトの無意識を無視した理由である。

こういう考え方の背後には、人間の思考は意識的にコントロールされたものだとの前提があった。意識的にコントロールされたものだということは、人間の内在的で自主的な活動であって、外在的な要因には左右されないという意味だ。人間の意識の活動はあくまでも意識の内的な事情だけで説明されるのであって、意識外の事情に影響されることはないと考えられたのである。しかしこの考えに異存を唱える者が現れた。レヴィ=ストロースである。レヴィ=ストロースは、人間の思考は、人間の内部だけで完結するものではなく、外在的な要因に大きく影響されると考えた。その外在的な要因が、カントのいうような認識枠組みとして、人間の思考に枠をはめることがある。その外在的な要因の体系をレヴィ=ストロースは構造と言って、その構造がいかに人間の思考を制約するかについて、詳しい研究を行った。かれのこうした考え方は、構造主義という運動にまで広がっていくのである。

レヴィ=ストロースは、構造を外在的な枠組だといって、無意識とは言っていない。その理由はおそらく、無意識が、意識の否定とはいえ、意識の基底というか意識と隣り合わせに存在しているイメージなのに対して、構造のほうは意識の外部から意識に働きかけるという面に着目したからだろう。無意識は(無)意識として人間の内部にあるのに対して、構造のほうは集合的な意識の、いわば疎外態として、人間の外部にあるものとイメージされたわけであろう。

構造をよく分析してみると、カントのカテゴリーとは異なって、個別の人間の意識がコントロールできるものではない。カントのカテゴリーも、ある意味では人間の意識的なコントロールの及ばないところがあるが、何といってもそれは、認識の枠組みとして意識化されるわけであるし、人間にアプリオリに備わった枠組ゆえに、意識的にコントロールできる部分も多い。意識的にコントロールできると言うのは、自覚しながら誤ることもできるという意味だ。これに対してレヴィ=ストロースの構造は、人間の外部から、思考というか認識の働きに影響を及ぼすわけだから、それを意識的にコントロールすることはできない。人間は、構造にしたがって思考するのであって、構造を自分の思考に任意にあてはまるようなことは、原則としてできない。構造は人間の思考活動の、いわば地平のようなものなのだ。人間はその地平の内部で思考する。地平を飛び出ては、思考はできない。

レヴィ=ストロースが構造の概念を持ちだしてきたのは、いわゆる未開社会の思考を説明する文脈のなかでのことだった。いわゆる未開社会に生きている人々は、レヴィ=ストロースがその一員である西欧社会の人間とは非常に違った考え方をする。それをレヴィ=ストロースは、未開社会の「未開」性のせいにはしなかった。未開社会には未開社会なりの合理的な思考様式があるのであって、それは西洋的な思考様式にくらべて、野蛮だとか不合理だとはいえない。価値において優劣はないのだ。たまたま彼らは我々西洋人とは異なったふうに思考する、というだけのことである。そういう違いが生じて来るのは、我々の思考の枠組みとは違った枠組みに未開社会の人びとが従っているにすぎない。その枠組みのことをレヴィ=ストロースは「構造」と名付けたわけだ。思考の構造は、文化・文明の違いに応じて違っている。それは、その文化・文明を生きている人々の思考を、外部から制約するものとして働いているのである。

そのようなものとして構造は価値中立的な概念である。この概念によれば、人間の文化・文明には、基本的には価値の序列はないということになるが、それは進歩の介入する余地がないということにつながる。進歩という概念を持ち込めば必然的に文化・文明の発展段階というような議論になるし、その議論からは価値の優劣が生じて来る。進歩の段階が進んだ方が価値が高いということになるからだ。レヴィ=ストロースによれば、人間の思考の構造には価値の優劣はないのであるから、従って進歩も問題にはならない。西洋人がいわゆる未開社会の人より進歩していて、したがって価値が高いとは言えないのである。

構造はまた、人間にとって外在的な制約要因であるから、個々の人間のコントロールを超えている。その点では、無意識と似ているところがある。無意識も、それが意識化されないという点では、人間のコントロールを超えている。コントロールというのは意識的な営みだからだ。

構造と言い無意識と言い、意識のコントロールを超えたものが人間の思考を左右するという見方は、哲学の伝統からすれば甚だしい逸脱に映ったわけだ。そこから生じる驚きが、まずフロイトの無意識を無視させることになったのだが、レヴィ=ストロースが構造の概念を提起して、それが一定の影響力を持つようになると、そうはしてもいられなくなった。構造の概念が哲学界に市民権を得たきっかけの出来事として、レヴィ=ストロースによるサルトル批判がある。サルトルは、伝統的な意識の哲学者であり、その立場から人間の自由を最大限に主張した。人間は自由であって、なにもかも自分の思い通りになる。その意味では自分自身の主人でもある。人間は自分自身の主人として世界に臨み、自分自身を超えて世界全体をも所有することができる。そう主張したサルトルを、人は究極のヒューマニストと呼び、そんなサルトルと一緒くたにされることをハイデガーは嫌ったわけだが、そのサルトルをレヴィ=ストロースが批判した論拠は、人間はサルトルがいうような、自分自身の主人ではありえないということだった。人間は自分自身の主人でないばかりか、自分にとっての外在的な制約である構造に従属している。その構造は、文化・文明ごとに異なっていて、サルトルがいうような人間の進化とは無縁なのだ。こうレヴィ=ストロースは主張して、その主張をなるほどと受け取る動きが出てきたわけなのであった。

レヴィ=ストロースのサルトル批判には、政治的な意図も感じられて、すんなり受け取れないところもあるが、哲学史上の出来事としては、構造とか無意識とかいったものに市民権を与える方向で一定の効果をもった。それ以後、レヴィ=ストロースのいうような意味での構造の概念を前面に押し出す哲学者もあらわれる。構造主義者とよばれる連中がそれだが、なかでも最も強い影響力を発揮したのはフーコーだった。フーコーのエピステーメー論は、レヴィーストロースの構造概念をフーコーなりに敷衍したものなのである。その概要については別稿で触れたとおりである。

日本人の広松渉も、彼一流の認識論において、レヴィ=ストロースの構造を思わせる議論をしている。広松によれば、人間はある対象これを、そのものとして認識するわけであるが、その~として、が人間の認識を外部から制約する枠組になっている。その外部的な制約を広松は共同主観性という言葉で呼んでいるが、それがレヴィ=ストロースのいう構造の概念に相当するわけである。




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