知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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意識の直接的与件


デカルトが意識から存在を導き出して以来、西洋哲学は意識を舞台に展開してきた。中にはマルクスのように存在が意識を規定すると言ったり、ニーチェのように西洋哲学の枠組みそのものをひっくり返そうとしたものもいたが、それらは例外と言ってよく、西洋哲学の主流を歩く者は、意識という道を踏み外すことはなかったのである。その意識の問題をもっとも先鋭的な形で突き詰めたのは現象学であった。

現象学というと、ヘーゲルの「精神の現象学」が思い浮かぶが、ここではフッサールの現象学を取り上げたい。フッサールの現象学は、意識を舞台として展開される現象の諸相を分析したもので、新カント派と同じくカント主義の延長にあるものだ。カント主義は、意識の直接的な与件としての直観=現象を、その原因となった物自体と区別したわけだが、フッサールの現象学はこの区別を廃止して、物自体の存在は棚上げし、現象だけに着目した。人間の意識を舞台にして展開される現象こそが、人間の認識にとって有意義なものであって、それ以外のもの(物自体)を想定する必要は毫もないというのが、フッサールの現象学の立場だった。物自体の存在を棚上げにして、意識の内容だけが実在性を持つと主張すれば、観念論の批判を免れないところだが、フッサールは例のエポケーを持ち出して、意識の内容に実在性を持たせず、あくまでも意識の内容としての資格において考察した。それによってフッサールは、実在論と観念論の対立を乗り超えたつもりなのであった。

これは別の言い方でいえば、存在と現象との二元論を乗り越えたことを意味する。カントは物自体という言葉で存在をあらわしたわけだが、その物自体が棚上げされるわけだから、存在もまた棚上げされ、現象に一元化される。この事態をサルトルは「存在と無」の冒頭部分で、わかりやすく説明している。サルトルはそこで存在と現象の二元論は克服され、現象一元論が唯一の選択だという意味のことを言っているのだが、サルトルの言うところの現象とは、意識の直接的与件のことである。もっともサルトルは、存在と現象の二元論に代えて、(有限と無限の対立という)別の二元論を持ち込むので話がこんがらがってくるのだが、フッサールの場合には、とりあえず意識の直接的与件としての現象を中心として、彼一流の思想を展開する。

フッサールのいう現象とは、とりあえずは意識の直接的与件として与えられるのだが、その場合に意識とそれに対して与えられる現象は、カントのいうような意味合いを超えている。カントにおいては、一方に意識する主体があって、それにたいして(外部から)感性的な直観として生の現象が与えられるという構図になっていた。意識の主体と客体とが峻別されているわけである。意識の主体は、自分に与えられた感性的な直観を材料にして、それに自分自身にアプリオリに備わっている枠組みを当てはめて、対象の知的認識に進んでいくという構図である。意識と対象とはあくまでも別々のものとして、外的なかかわりあいにあるわけである。

こういう考え方は、絶対空間のなかに個々の存在者が存在するという構図とよく似ている。絶対空間に相当するのが意識であり、その意識のなかに存在者としての対象が侵入してくるというわけである。意識はそれ自体が自立したもので、とりあえず対象とは別のものである、という考え方に立っているわけである。ところがフッサールは、意識の働きと意識の対象とを別物とは考えなかった。意識というのは、それ自体が自立している空間のようなものではなく、従って対象から独立したものではなく、対象と一体となったものなのだ。何故なら意識とはつねに何者かについての意識であり、その何者かを欠いた純粋の意識というものはありえない。この場合の対象が、意識の直接的与件をさしていることはいうまでもないが、いずれにしても意識は対象あっての意識なのである。

フッサールはこの事態を、ノエシス・ノエマの概念セットを用いて説明する。ノエシスは意識の働きであり、ノエマは意識が向かう対象のことをいうが、ノエシス・ノエマは一体のものとして意味を持つのであって、どちらもそれ自体だけでは意味を持たない。ノエマあってのノエシスなのであり、ノエシスあってのノエマなのである。どうしてそう言えるのか。それはフッサールが、とりあえず外的な存在をカッコに入れて、意識の直接的な与件だけに焦点を当てていることの結果である。

こうしたフッサールの考え方は、新カント派のカッシーラーにも通じるところがある。カッシーラーは実体概念と関数概念を区別して、実体概念を用いないで関数概念だけで人間の認識や世界のあり方を説明できると言ったのだが、その場合の実体概念が存在に対応するもので、関数概念が現象に対応するものだ。関数概念というのは、現象の動きに着目したもので、現象をその原因であるとされがちな実体とは切り離して、それ自体の内在的な傾向性を関数という形で表現しようというものだ。その傾向性は因果関係という形をとることもあれば、統計的な近似値という形をとることもある。要するに現象を、それ自体に即して語らしめようとする立場だ。こういう立場は現象一元論ともいうべきもので、フッサールの現象学と大いに似ているところがある。

現象一元論ともいうべき思想の動向は、20世紀初頭のヨーロッパ思想の大きな流れであって、ベルグソンの生の哲学や日本の西田幾多郎の思想もその流れに沿っていると言える。現象は人間の意識にとっては、意識の直接的与件としての直観という形をとるので、現象一元論は直感主義とも言い換えられる。この直感主義の思想史上の意義は、カントが直観をあくまでも人間の知的認識の材料としての資格に留めたのに対して、それだけで人間の認識のすべてを説明しようとしたことだ。フッサールについて言えば、直観はただに感性的な内容をもたらすのみではなく、形相的なものをももたらす。ということは、人間は直感を通じてあらゆる知的認識を獲得できると考えるわけである。これは人間の認識を直観の働きに還元しようとするもので、この直観が人間にとっては現象の形をとることからすれば、現象一元論といえるわけである。

もっともフッサールは、自分の現象学は、ある意味操作的な概念であって、人間の認識の働きを都合よく説明できる限りで効力を持つに過ぎないと考えていた。彼のいう現象は、人間の認識やその対象である世界を解釈するための便法であって、それで以て世界をすべて説明しきれるとも言えなければ、世界の存在性を無視することができるとも言えないとした。彼が言ったのは、世界を解釈するためには、とりあえず現象に着目すればいいのであって、カントのいう物自体とか世界の実在性については、とりあえずカッコにいれておこうと言うに過ぎない。操作的というのは、そういう技術的な態度のことを言うわけである。

こんなわけで、フッサールの現象学を中心として、世界をそれ自体としてではなく(つまり存在としてではなく)、人間の意識の相関者として(つまり現象として)捉える見方が20世紀の初頭には支配的になった。それは意識の直接的与件に定位しながら、人間の認識と世界のあり方を解釈しようとする傾向である。その傾向はレヴィナスあたりまで束縛しつづけている。非常に影響力の広いものだったわけである。




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