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因果的思考と隠喩的思考


人間の思考の基本的かつ最小の単位は判断である。思考は判断の積み重ねからなっていると言ってよい。その判断の様相とか形式を対象にした学問が論理学である。論理学はアリストテレス以来の伝統をもち、さまざまな角度から研究されてきたが、今日主流の論理学は記号論理学といわれるものである。これは論理を形成する判断をいくつかのパターンに形式化し、それを記号に置き換えたうえで、その記号の組み合わせを通じて人間の思考の特徴を考察しようとするものである。

現代の記号論理学は、人間の判断を五つの最小単位にパターン化している。否定、連言、選言、条件法、同値である。このうち条件法は、もしAならば、Bである、ということを意味する。これは、Aが原因となって、Bという結果が生まれると読めるから、因果関係をあらわしたものと考えられる。ということは、因果関係は人間の判断の基本にかかわるということだ。

因果関係は、否定以下のほかの四つの判断パターンに比べると、やや複雑な様相を呈している。他の四つが、瞬間的に判断されるのに対して、因果関係には一定の時間が介在してくる。AからBが結果すると言えるためには、AからBへの移行に要する一定の時間についての自覚が必要だからだ。なぜなら、AとBとは、同一の時間軸では比較できない、つまり異なった時間帯に属している。その異なった時間帯のものを現在という同一の時間帯に再現前化させることで初めて両者の比較ができるのである。

因果関係が人間にとって重要なのは、それが未来についての判断にかかわるからである。他の四つの判断パターンが、対象の同一性にかかわるのに対して、因果関係は対象の変化にかかわる判断である。同一性にかかわる判断は、あるものをそのものとして、確固とした存在として把握するのに必要な条件をなす。そういう意味では、非常に重要な意義をもつ。対象の同一性を判断できなかったら、人間は対象的な世界を正確に判断できないだろうし、また自分自身の自己同一性も判断できないだろう。統合失調症は、自分自身の自己同一性を確信できないことを内実としているが、自己自身を含めた対象の自己同一性の判断は、人間が普通の意味での人間として生きていくうえでの、もっとも基本的な条件である。

それに対して因果関係は、対象の同一性ではなく、変化にかかわる判断である。Aが変化してBになったという判断には、いくつかのパターンがあるが、そのなかでもっとも重要なのが因果関係の判断である。因果関係というのは、AからBへの変化に、必然的な理由があるとする判断であり、Aがあればそれは必ずBになるという判断のことである。この判断があるために人間は、未来を予測することができるようになる。未来を予測できるというのは、人間を他の動物から区別するもっとも核心的な能力であり、人間はこの能力を持つおかげで、対象的世界に積極的に働きかけ、対象を自分の思うとおりにコントロールすることができるようになる。人間以外の動物は、対象の同一性を認識できても、因果関係は認識できない。因果関係の認識こそが、人間を人間らしくする核心的な条件なのである。

因果関係の判断は、人間のあらゆる思考過程に介在している。人間の判断の少なからぬ部分は因果関係についての判断である。少なからぬ、といったわけは、判断の殆どの部分を同一性についての判断が占めているからである。この判断は人間以外の動物と共有しているものなので、いわば原始的な判断である。その原始的な判断の上に立って、我々人間は因果関係についての判断を行っているのであるが、その判断は、主として未来の行動にかかわるものである。Aという事象が起れば、我々はそれに引き続いてBという事象が起るだろうと予期して行動することができる。そのことが人間の行動の幅を広げるのである。

因果関係の判断の有効性に疑問を投げかけたものもあった。イギリス経験論の論客ヒュームである。ヒュームは、AからBへの変化についての判断を、単なる事象の並列の判断にとどめるべきであるとして、そこに因果関係を認めるのは、人間の側の恣意的な思い込みに過ぎないと批判した。たしかに、経験的な事象だけを見ている限りは、AからBへの変化に必然的な理由を見つけることはできない。我々がそこに因果関係を認めるのは、それ以前の観察から得られた結果にもとづくのだが、その関係が未来に渡って永劫に続くとは誰も言えない、というのがヒュームの批判の主な理由であった。

それに対してカントは、因果関係についての判断は、人間にアプリオリに備わったカテゴリーを事象にあてはめたものなので、ヒュームがいうような、純粋に経験的な、つまりアポステリオリな判断ではないといって反論した。カテゴリーがアプリオリということは、因果関係についての判断は分析的な命題だということを意味し、分析的な命題はつねに有効であるというわけである。

因果関係の基礎づけについての哲学的な議論を一応棚上げにすれば、それが人間の思考の基本的な条件となることに誰も異議はないはずで、だからこそ、記号論理学も因果関係についての判断を、論理学の基礎的な要素としているわけである。論理学というのは、人間の判断にかかわる学問であるが、同時に対象的な世界についての人間の認識の基礎となるものである。その対象的な世界は、因果関係の体系として捉えられる。世界が因果関係から織りなされているということは、我々人間が対象的世界に積極的に働きかけ、それを自由にコントロールできることを意味する。我々が科学と呼んでいるものは、ほとんどすべて、この因果関係の体系を対象としているのである。

それゆえ因果関係についての判断は、科学を支えている。科学的思考と呼ばれるものは因果的思考と言い換えてもよい。因果的思考とは、因果関係が論理学の土台をなしているという意味で、論理的な思考と言ってよい。論理的な思考は、人間の人間らしさを保障するもっとも重要な条件である。我々人間という種が、地球上でこれまで繁栄できたのは、この論理的思考の賜物なのであると言ってもよい。

人間はしかし、論理的に思考するばかりの生き物ではない。非論理的に思考することもある。非論理的というと、非難とか嘲笑を読み取られるかもしれないが、ということは人間にとって非本来的な、むしろ有害なものというイメージが払しょくできない場合もあるが、そればかりとは言えない。非論理的な思考の中には、人間にとって有意義な思考もあるのである。

その代表的なものは、比喩による思考である。比喩というのは、あるものを別のものに譬えることである。たとえば、女性の美しさをバラの花の美しさに譬えて、あなたはバラの花のように美しいというような場合がそれにあたる。比喩にはいくつかのパターンがあるが、もっとも重要なのは、修辞学で隠喩と呼ばれるものである。これは先の「あなたはバラのように美しい」というのを省いて、「あなたはバラだ」と言い換えるものである。人間がバラであるわけはないので、これは厳密な言い方ではないということになるが、それが修辞学的に有効だとされるのは、あなたとバラとが美しいという点で共通しているからである。このように、主語に内在する属性の共通性にもとづいて、AとBを結びつける思考を隠喩的思考と呼びたいと思う。

因果的思考が科学的な思考と言えるとすれば、隠喩的な思考は文学的な思考、文学のなかでも詩がもっとも馴染みやすいことからすれば、詩的思考ということができる。詩的な思考は、科学的な思考と違って、人間にとっての功利的な意義は持たないが、だからといって意義において劣るということにはならない。実際隠喩的な表現を排除したら、人間の生活はかなり味気ないものになってしまうであろう。




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