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比喩とレトリック


前稿で因果的思考と対比させて隠喩的思考について述べた際に、隠喩的思考は文学的あるいは詩的な思考だと言った。文学的とか詩的とかいう言葉を使ったのは、隠喩的な思考は因果的思考と違って、論理性ではなく言葉のもつ創造力に訴える点があることに注目したからだった。論理が人間の思考を正確に表現するのに欠かせない道具だとすれば、創造力はそれとは別の能力である。その能力を高めることを意図した学問に修辞学=レトリックというものがある。

レトリックは、くだけた表現で言えば言葉のアヤということになる。言葉のアヤには色々な効用があるが、その効用を分析して見せるのが学問としてのレトリックである。レトリックの効用のうち最もわかりやすいのは、レトリックの多くの教科書が指摘するように、印象的な説得力と芸術的な挑発力である。とりわけ芸術的な挑発力は、文学やその先鋭的な言葉の芸術である詩にとって、根本的な推進力となる。文学や詩が言葉の芸術と言われるのは、それがレトリックの芸術的な挑発力に裏付けられているからだ。

こう言うと循環論法に聞こえるかもしれない。たしかに、文学が言葉の芸術であるのはそれがレトリックの芸術的な挑発力に支えられていると言うのは、芸術を芸術によって定義するようなものだ。循環論法に陥らないためには、芸術的な挑発力という言葉の内容を、もっとわかりやすい表現で言い換えねばなるまい。するとどう言うのが相応しいか。とりあえずは、レトリックには人の想像力に訴えるところがあると言っておこう。人の想像力に訴えるということが、芸術にとって本質的な機能だという主張が、この言い方には含まれている。とりあえずそれを前提として、先ほどの定義を別の言い方に言い直せば次のようになるだろう。(詩を含む)文学は、レトリックのもつ人の想像力に訴える働きを通じて、言葉の芸術になりえている、と。

人の想像力に訴えると言ったが、具体的にはどういうことか。人間には色々な能力が備わっているが、想像力は、論理的な推論の能力と並んで、もっとも重要な能力だ。論理的な能力は、対象を正しく把握するために不可欠の能力だが、想像力のほうは人間にとってどのような働きをするのか。とりあえず単純化して言うと、対象的な世界について、これまでとは別の見方を示してくれたり、新しい発見をもたらしてくれるということだろう。これらの働きが、芸術を芸術らしくする推進力になっているようである。

芸術には色々な種類がある。視覚の芸術であるところの絵画や彫刻、聴覚の芸術であるところの音楽、身体感覚の芸術としての建築等々である。さすがに味覚の芸術とか臭覚の芸術というのはないようだが、芸術は人間の感性の区分にしたがっていろいろな分野に展開している。それらを推進しているのは、それらが人間の想像力に訴えかける衝動のようなものだろう。文学もまたそうした衝動を共有しているといえる。文学の鑑賞において、我々は言葉のもつ芸術的な挑発力、それは我々の想像力を活性化させる力であるわけだが、その挑発力に挑発されて、想像力を自由に羽ばたかせ、それによってこれまでとは別の見方をするようになったり、新しい発見をしたような気になるわけである。

ところで、文学の分野で、芸術的な挑発力を担っているのは、言葉のもつ力である。その言葉の力がレトリックとして働くわけだが、レトリックの内実を構成するのは比喩である。比喩の中でも隠喩が、もっとも想像力を喚起する働きをする。文学的な思考を隠喩的思考と言ったわけは、そこに根差している。

比喩というのは、あるものを別のもので言い換えることである。それを、AをBに譬えるというふうに表現することができる。比喩の働きには色々あって、未知のものを既知のもので代替することで、その未知のものに近似したイメージを得るという働きがある一方、既知の二つのものを並べて比較することによって、その既知のものを新たな光の下で見ることとなり、その結果そのものについての認識を改めるというような効果も生まれる。いづれにしても、比喩には、人間の認識を拡大するという働きがあるわけである。この認識の拡大が、想像力と結びつくとき、今までには見えなかった、あるいは存在しないと思われていた世界が、新しく開けてくることとなる。つまり比喩は、世界について全く新しい見方をもたらしてくれるのである。

レトリックの教科書では、比喩を四つに分類するのが主流である。直喩、隠喩、換喩、提喩である。直喩はもっともシンプルな比喩であって、たとえば、「あなたはバラのように美しい」といった具合に、あるものと別のものとを共通の特徴に基づいて比較することである。この例の場合には、あなたとバラとは美しさという共通の特徴で結びつき、そこから「あなたはバラのように美しい」という言い方が生まれるわけである。

隠喩は、直喩をもっとストレートな形で表現したものである。上の例でいえば、「あなたバラのように美しい」というかわりに、「あなたはバラだ」、というふうに単刀直入にいう言い方である。これは共通の属性である「美しい」が影に隠れた形になっていることから、隠喩と呼ばれるわけである。この隠喩が、比喩のなかでも最も強烈な働きを及ぼす力をもっている。それゆえ比喩と言えば、隠喩ということに、とくに文学的表現については言えるほどなのである。

直喩にしろ隠喩にしろ、あるものと別のものとを、属性の共通性に基づいて比較するという働きからなっている。属性は、言語的には、主語に付される述語という形をとる。したがって、直喩とか隠喩は、述語の共通性にもとづいて二つのものを比較し、同一化するという形をとる。ところが、述語の共通性に基づくあまりに、正常の判断とは異なった判断が生まれる場合がある。たとえば、次のような場合である。
  聖母マリアは処女です
  わたしは処女です
  聖母マリアは私です
これは誰が見ても成り立たない推論である。なぜなら聖母マリアが私であることは、事実としてありえないからだ。だがよくよくみると、これは隠喩の成り立ちと全く同じメカニズムに立っているのがわかる。隠喩とは述語の共通性に基づいて二つの主語を結びつける働きなのだが、この推論も、述語の共通性に基づいて二つの主語を結びつけている。つまり、隠喩的な思考は、論理的な思考とは別だということになる。論理的に考えれば、隠喩が物語っていることの多くはナンセンスにすぎない。しかし、論理的にナンセンスなことと、芸術的に創造力を喚起することとは違う。論理的にナンセンスだからといって、それを人間の営みから排除してよいとはならないのである。

直喩と隠喩が属性の共通性、つまり類似性に基づいているのに対して、換喩と提喩は隣接性に基づいていると言われる。換喩とは、原因によって結果を表現したり(例えば文章を書くことを筆を執るという)、容器によって内容を表現したり(例えば酒をお銚子という)、身体の部分によって感情を表現したり(例えば怒りの感情を覚えることを腹が立つという)、といった具合である。隣接性の定義は明確ではないが、類似性とは違って、比較されるもの同士には共通の特徴はない。

提喩は換喩の一種であって、分類上より高次のものを低次のもので言い現わしたり、その反対により低次のものを高次のもので言い現わしたりすることを言う。たとえば、人間たちと言うかわりに死すべきものたちといったり(高次のもので低次のものをいう)、悪人を盗人で代表させたり(低次のもので高次のものを代表させる、例えば盗人たけだけしい、というような)、といった具合である。

これら四つの比喩のパターンのうち、文学的な表現にとってもっとも重要なのは、繰り返しになるが、隠喩である。隠喩には、先ほど言及したように、論理的にはナンセンスというべき部分も含まれているが、それでもそれが人間にとって不可欠のものとして認識されているのは、人間は論理だけで生きる生き物ではないということを物語っているのだと思う。




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