知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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苦痛について


大江健三郎の短編小説に「死に先立つ苦痛について」と題する作品がある。人間は死を恐れるが、死それ自体は体験できるわけではない。体験できるのは死に先立つ苦痛であって、その苦痛があまりにも激しいものであるために、死それ自体も激しい苦痛を伴うものだと思い込むのだ。しかし、死と苦痛とはやはり別物であり、我々は死そのものを恐れる必要はない。小説のなかの登場人物は、このように考えて、苦痛を最低限に抑えながら、死を迎えようとするのである。

これは、死を苦痛から分離したうえで、この二つは別の事柄だとする立場である。しかし、この二つはそんなに簡単に分離できるのだろうか。死は苦痛とは全く別の出来事なのだろうか。そうだとすれば死は瞬間的な出来事だということになり、その瞬間にあっては苦痛から解放されていることになる。

死と苦痛との関係は、そんなに単純なものではなく、両者の境界が截然とひかれるわけではない。死と苦痛とは渾然として一体化した事柄なのだと主張したものもいる。エドガー・アラン・ポーである。ポーは「早すぎた埋葬」という短編小説の中で、死んだと思われて土葬された男が、墓のなかで意識を取り戻し、自分の置かれた境遇に絶望するという話を書いた。小説の中では、死んだと思われていた男は実は死んではいなかったのだ、というふうに思わせるように書かれてあるが、よくよく考えると、この男はやはり死につつあったのであって、その死につつある最後の一時を、小説の中で、自分の死にざまとして紹介しているのだと思えないこともない。

つまり、この男の場合の死は、瞬間的な現象ではなく、ある一定の時間の長さにわたる継続的な現象だったといえないこともない。死は、一瞬で片付くことではなく、時間の厚みのようなものを伴なっている。その時間の厚みの中で、死につつある人間は、死につつあることに伴う苦痛を味わうのだ。だからこの場合には、大江のいうような「死に先立つ苦痛」という表現ではなく、「死に伴う苦痛」あるいは「死と一体化した苦痛」という表現のほうが適切かもしれない。

こうした苦痛にあっては、人はその苦痛を通じて死を体験しているのだといえなくもない。このような捉え方は、我々の日常感覚に近いものがある。我々が死を恐れるのは、死そのものであるよりは、死がもたらす、あるいは死に伴う苦痛を恐れるのである。そうした苦痛は、死とは区別されるものなのだから、何も死を恐れる理由はない、と言われても、我々はやはり死を恐れざるをえないように出来ている。それは、死と苦痛とが別物ではなく、我々には往々、一体化した状態で迫って来るということを、我々が経験から学び取っているからだ。我々は、死の床についた人間が、耐えがたい苦痛の裡に死んでゆく場面を幾度も見るうちに、死と苦痛とは一体化しているのであり、苦痛の烈しさに応じて、死もまた恐ろしい出来事なのだという信念を強めるのである。

このような、死と苦痛との関連についての素朴な信念を、哲学的に解明したのがレヴィナスだった。レヴィナスは、死は到来するという。死は私の内部から起きる出来事ではなく、外部から襲い掛かって来る出来事だというのである。そうした考えには、レヴィナス一流の他者論の考えが働いているわけだが、それはさておき、レヴィナスのいう死とは、人間にとっては、自分の意のままになる事柄ではなく、いわば強いられた事柄だとする主張が込められている。そうしたものとしての死は、私にとっては、私が私でなくなること、私という存在者の存在が消滅することを意味している。死とは、私を不存在に移行させる出来事なのである。

私が死を通じて存在することから存在しないことへ移行するにあたって、私はその移行をすんなりと受け入れることができるだろうか。もしできるのだとすれば、私は比較的楽な気持ちで死んでいけるだろう。つまり存在することをやめることができるだろう。しかし、人間はそんなに単純には出来ていない。何故なら、人間としての私は、存在していることによって私であるわけで、存在することをやめてしまったら、もはや私ではなくなる。しかし、私はそう簡単に存在することをやめられるだろうか。いや、そうではない、やめられない、とうのがレヴナスの考えである。

レヴィナスによれば、苦痛というのは、存在にこだわる人間のあがきのようなものなのだ。人間というものは、本来的に存在に繋縛されている。死はその繋縛から人間を解き放つものである。というよりか、人間を無理やり存在から引き剥がすものである。その引き剥がしには苦痛が伴う。苦痛とは、死という形での、存在からの引き剥がしに対する拒絶反応のようなものなのだ。だから、死と苦痛とは切り離しえない。この二つは、一つの出来事の、それぞれ異なった様相を言っているに過ぎない。われわれは、苦痛を通じて、我々の存在が脅かされているのを感じ、それが死によって成就されるということを納得するのだ。苦痛は存在へのこだわりそのものであり、その苦痛の果てに死が訪れるとすれば、我々は存在への繋縛から引き剥がされたと考えるべきなのである。

こうしたレヴィナスの考えは、死と苦痛とを一体のものとしてとらえ、死を、瞬間的な出来事ではなく、時間の幅を有したひとつのプロセスとする見方に立っている。無論、苦痛を味わうゆとりもなく、一瞬にして死に見舞われるケースもある。だが大部分の死において、死はある意味で緩慢な過程であり、時間のうちに繰り延べられた死を前にして、我々は存在への繋縛がもたらす苦痛を味わうのである。苦痛とは、重ねて言うが、存在への繋縛がもたらす現象、存在への繋縛から発せられる生への意欲、つまり存在へのこだわりそのものなのである。

これは、病気がまず痛みとなって現われる現象とよく似ている。人は痛みを覚えることで、自分の病を意識し、治療のプロセスに入る。痛みは病の警鐘なのである。この警鐘があるおかげで、我々は自分の病気をいち早く察知し、それに対して手を打つことができる。それと同じように、我々は苦痛を感じることによって、自分が死について心構えをしなければならぬと教えられるのである。

レヴィナスの、死と苦痛についての考え方は、やはり彼が属していたユダヤ民族が蒙った深刻な事態に影響されているのだと思う。絶滅キャンプでユダヤ人たちが直面した事態は、伝統的な死の概念を揺さぶるものだった。かれらは突然襲い掛かってきた異常な事態に直面して、なすすべもなく殺されていった。その折の彼らの感情を前にしたら、死は恐れるに足りないことだなどと、平然といえるものではないだろう。彼らの蒙った苦痛を前にしては、死と苦痛は別物だから、死それ自体を恐れるには及ばないなどと、誰も言うことは出来ないだろう。実際には、かれらにとって、死と苦痛とは一体化したものだったに違いないのである。

なお、死が苦痛からの、本当の意味での開放だと思われないでもない場面もある。そういう場面においては、身をさいなむ苦痛から逃れる手立ては、自分自身の存在への繋縛を断ち切ることしかない。存在への繋縛を断ち切れば、苦痛そのものもなくなるわけだからだ。こういう場面にあっては、へたな延命治療は、存在への繋縛としての苦痛を長引かせるだけだといえる。




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