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アリストテレス:西洋思想へのインパクト |
アリストテレスは、ギリシャの哲学が創造的でありえた時代の最後に現れた哲学者である。西洋の哲学が真に創造的であったのは、アリストテレスの時代までであって、その後近代の夜明けに至るまで、形式主義に毒された長い沈滞の時代が続いた。だからアリストテレスは、さまざまな意味で、西洋思想の節目を画す巨大な存在だったといえる。 まさに知的巨人というに相応しいアリストテレスであるが、その業績は、先行するギリシャ思想へのかかわり方と後の時代への影響という、両面から考えられる。 ギリシャ哲学へのかかわり方という点では、「形而上学」において先行する哲学者たちを批判的に総括し、一種の包括的哲学史を論述したことに伺われるように、哲学というものを一つの知の体系として、それも人間の知的営みのうちもっとも純粋でかつ高次のあり方として纏め上げた。それまでイオニアの自然学者たちをはじめ、ギリシャの哲学者たちが個々に考えてきたものが、ここにはじめて、思想を解きほぐす統一した視点の下に相互に関連付けられ、体系的に論述されるに至ったのである。 アリストテレスの思想の骨組みについては、後につぶさに見ていくことにしたいが、それは一言で言えば、存在に関する問いかけであったといえる。タレス以来、ギリシャの哲学者たちが問い続けてきたのは、存在とは何かということであった。アリストテレスは質量と形相という一対の知的枠組みを取り出し、それをもとに存在の本質とそのさまざまな現れについて考察した。同時にこの枠組みの中に先人たちの業績を位置づけなおし、ギリシャ哲学全体を存在論の視点から構築しなおしたのであった。 アリストテレスは、存在に関する問いかけを論理学という形に定式化した。それは存在の本質とその諸相に関する陳述であり、同時に存在をめぐる推論の定式化でもあった。そこには近世以降の哲学者たちに見られるような、存在と認識の分裂はない。人間の思惟と世界の存在とは、一体のものの次元を別にした表れとして、予定調和というべき関係におかれている。 アリストテレスの論理学的な思考は、その後の西洋思想に圧倒的な影響を及ぼした。中性の世界観と人間の認識に関する考え方は、すべてアリストテレスの学説の上に成り立っていたといって過言ではないのである。それはきわめて形式的な論理に従った世界把握であり、静的で硬直したものになりがちだった。これゆえ、近世以降の哲学は、前へと進むためには、アリストテレスとの格闘をへなければならなかった。とりわけアリストテレスの確立した形式論理学は、世界の説明原理として、またそれを認識するための知的枠組として、今日でさえ、強烈な影響を及ぼし続けているのである。 アリストテレスは紀元前384年、トラキアのスタゲイラに生まれた。トラキアといえばギリシャの中でも僻地とされるところで、ディオニュソス信仰をはじめ東方の影響が強かったところである。だがアリストテレスには、東方的な非合理精神は全くなかった。師のプラトンがピタゴラスを通じて東方的なものをかなり吸収していたのとは違い、アリストテレスは生涯を通じて合理的な精神を維持し続けた。 アリストテレスは18歳のときにアテナイへやってきてプラトンの弟子になり、そこに20年近く留まった。彼はまずプラトンを通じて世界把握と人間の知のあり方についての研究を始めたのだった。 紀元前343年、アリストテレスはマケドニアの皇子アレクサンドロスの教育係になった。父親がマケドニア王の侍医であったことのゆかりとされる。この世紀の英雄との出会いは、歴史上の想像力を駆り立てるものであるが、実際には、この師弟は全く理解しあうことがなかったようである。アレクサンドロスが偉業を達成するに当たって、アリストテレスの影響があったことについては何一つ立証されていない。むしろ、アレクサンドロスはアリストテレスを、父親のフィリッポス王から押し付けられたご意見番程度にしか受け取らず、アリストテレスのギリシャ趣味を軽蔑していた節もみられる。 ギリシャ人のへラス世界はすでに変質を遂げつつあった。都市国家が林立し互いに敵対しあう関係は過去のものとなりつつあり、強大な覇者による統一が必然となってきていた。アレクサンドロスはこの動きに乗って、やがてギリシャの世界を統一するのであるが、アルストテレスの抱いていた政治思想は、相変わらず都市国家の枠を出なかったのである。 紀元前335年、アリストテレスは再びアテナイにやってきて、そこで学校を開いた。彼の膨大な著作群は、この晩年のアテナイにおいて書かれたのである。 アリストテレスはプラトンと異なり、熱狂的な資質は持っていなかった。彼の学問に対する姿勢はあくまでも実証を重んずるものであり、常識に裏付けられていたものだった。今日普通に見られる大学教授のスタイルを、西洋史上初めて実践した人物といってよい。彼の開いた学校ギュムナシオンは、その後の西洋的な教育施設のモデルともなった。 彼は12年間のアテナイでの研究生活の中から膨大な著作を著したのであるが、それらは弟子たちとの地道な研究に支えられていたのに違いない。主著「形而上学」でさえ、統一した構想のもとに綿密な準備に基づいて書かれたというより、その講義の内容を弟子たちが書き取ったノートというような観を呈している。 アリストテレスがアテナイに移る直前に全ギリシャをほぼ統一したアレクサンドロスは、その後ギリシャ軍を率いてペルシャからアジアの征服に乗り出したが、紀元前323年に若くして倒れた。 アレクサンドロスが死ぬと、アテナイはマケドニアに反乱し、マケドニア人であるアリストテレスもそのあおりを受けて断罪された。しかし、アテナイに対してソクラテスのような忠誠心を持っていなかったアリストテレスは逃亡して難を免れた。しかしその翌年(紀元前322)、死亡したのである。 |
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