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ベルグソンの哲学入門


半世紀ぶりにベルグソンを読み返している。テクストは、学生時代に大学生協で買った岩波文庫。インクが退色して読みづらくなっているが、まだ読めないわけではない。このテクストにこだわるのは、かつての読書の跡が記録されているためで、横線や書き込みを手がかりに、読んだ本の内容を再現しやすいからである。はじめて読むよりは、理解が進みやすい。

岩波文庫には、ベルグソンの主な著作がほぼ収められている。小生はそのうち「哲学入門」から読み直した。これは「思想と動くもの」と題したシリーズ物の一冊だが、このシリーズは講演をもとにしていることもあって、非常に分かりやすい。もっとも、哲学入門と銘打ってはいるが、一般的な意味での哲学入門ではなく、ベルグソンが考える哲学の本来のあり方とは何か、について説いたものである。

ベルグソンによれば、哲学とは知を対象としたもの、いわば知についての知である。その知には二種類あるとベルグソンはいう。それについて色々なことが言われているが、小生なりに要約すると、知には概念的な知と直感的な知があり、哲学が本来対象とすべきは直観的な知だ、ということになる。ベルグソンといえば、直観主義者として有名であり、彼のいう生の哲学とは直観に基礎付けられているということになっているから、小生のこの要約は理にかなっていると自負している。

とはいえ、ここでベルグソン自身に語らせよう。ベルグソンは、物を知るには二つの仕方がある、と断った上で次のように言う。「第一の知り方はその物の周りを回ることであり、第二の知り方はその物の内部に入ることである。第一の知り方は人の立つ視点と表現(表象)の際に使う符号(象徴)に依存する。第二の知り方は視点には関りなく符号にも依らない。第一の認識は相対に止まり、第二の認識はそれが可能な場合には絶対に到達できると云える」

第一の知り方が、小生のいう概念的な知であり、第二の知り方が直感的な知であることをわかってもらえると思う。概念的な知は、分析的な知と言うこともできる。分析的な知とは、対象の属性を分析することによって得られる知であるが、分析とは、ベルグソンに言わせれば、ある物の属性のもつ特徴を、自分がすでに知っているほかの物と関連付けながら、定義することである。だから、対象を他の物との相対的な関連において捉えることになる。分析的な知とは、対象を他の物との差異において定義することなのである。それ故ベルグソンは、「第一の認識は相対に止まる」と言うわけである。

それに対して第二の知り方は、対象の内部に入ることによって知を得るのであるから、対象を他の物との関係においてとらえるのではなく、そのもの自体を全体的に、しかも直接的に捉えるのである。そのような知をもたらすものは、直観である、ということになる。直観とは、概念的な操作を排した、直接的な対象の受容だといえる。哲学は、この直観に基礎づけられるべきだというのがベルグソンの基本的な主張なのである。かれの哲学は、広範にわたる領域をカバーしているが、そのすべての基礎に直観がある。それゆえ彼の哲学は直観主義と呼ばれるわけである。日本の西田幾多郎はベルグソンを高く評価したことで知られるが、かれはベルグソンを自分の直観主義とよく似たものとして理解し、そこに親近感を抱いたのだと思う。

この文章に込めたベルグソンの意図は、一つには、第一の知、即ち概念的・分析的な知を批判することと、二つには、第二の知、すなわち直感的・直接的な知の哲学的な意味について考察することにある。概念的な知の代表としてベルグソンが取り上げるのはカントである。カントは、アリストテレス以来のヨーロッパの認識論・論理学の伝統を踏まえて、人間の知を体系づけたわけだが、かれの方法というのは、徹底的に分析的であって、対象をそれ自体として考察するのではなく、他の物との相対的な関係において考察するというものだった。しかもその相対的な関係というのは、人間が先天的に持つとされる認識の枠組み(カテゴリーという)と関連付けられている。その枠組みをカントは先天的なものだと言うのだが、ベルグソンに言わせれば、新しい対象を自分がすでに知っていることに関連付けて理解するという点では、経験に裏付けられたものなのである。いづれにしてもカントに代表される分析的な知とは、対象を他の物との相対的な関連において理解するという点で、対象についての外面的な知ということになる。

それに対して、第二の知、つまり直観によってもたらされる知は、対象の外面ではなく、内面をストレートにとらえるということになる。内面は、他の物との相対的な関係を表すのではなく、そのものの全体を絶対的な形であらわすのである。ベルグソンの哲学的な営みは、人はいかにして対象の内面に入り、そのことを通じて対象を全体的・絶対的に把握できるか、その道筋を明らかにすることだったと言ってよい。

我々にとって外的な対象は、だいたいが分析を通じて、概念的・相対的に理解することができる。対象には、そのような分析に依らず、直観によって把握できるものが身近にある、とベルグソンは言う。我々自身の持続する自我である。我々は我々自身とは容易に同感できるわけであるから、我々自身の内部に深く分け入れば、絶対的な知に達することができる、というのがベルグソンの哲学的なスタートラインなのである。そのスタートラインについて説いているこの小文は、だから、哲学入門と呼ぶに相応しいということになる。

以上で、この小文が意図しているところが大体理解できたと思うが、小生はそう理解したうえで、ベルグソンのそうした試みが、あることを連想させることに気付くのである。たとえば仏教的な考えとの親縁性である。仏教的な考えの特徴は、分析的な知を排して直観を重んじるところにある。世界は直観によって与えられる。人間はそれに分析を加えることで概念的な知を得るが、それは世界を外面的・相対的なものとして切り取る作業であり、そうした作業によって、世界は生き生きとした全体性を失い、断片的に切り取ったもののつぎはぎ細工のようなものになってしまう。世界を全体として理解するためには、分析をやめなければならない。そうした仏教の考えと、ベルグソンの考えには相通じるものがある。

仏教的な考えは、東洋的な考えの一つの例だと言ったのは日本の井筒俊彦である。井筒はイスラム学者だが、イスラム思想の特徴を直観主義に求め、その直観主義が、仏教をはじめとした東洋の様々な思想に共通していることを発見した。その思想の特徴は、直観と無意識の重視といえる。それに対してカントに代表される伝統的な西洋思想は、明瞭な意識に支えられた分析を重視する。しかしそうした合理的な知では、世界の全体像は捉えられないという考えを東洋思想は共有している。ユダヤ教も同じである。そのユダヤ教の考えをベルグソンも持っているのではないか。というのは、ベルグソンはユダヤ人であり、そのような出自から、西洋の伝統的な思考に反発を覚えることは不自然ではないからだ。

そんなわけで、この小論には、ユダヤ人としてのベルグソンの立場が表明されている、と小生は受け取ったのである。



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