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哲学的直観:ベルグソンを読む


ベルグソンの著作「思想と動くもの」に収められた「哲学的直観」という小文は、哲学と科学を比較しながら、哲学固有の意味について考えたものである。科学はある時代における知を代表しているものであるから、その時代の哲学は科学に対して意識的にならざるを得ない。じっさいどの時代の哲学思想も、同時代の科学の成果を自分に取り込んでいる。そのうえで、哲学はすべての科学を基礎付けるものだと言ってみたり、科学の成果を一段と高い視点から総合したものだと言って自慢したがるものである。しかしそれは思い上がった考えだとベルグソンは言う。哲学と科学とは本来異なったものだから、それぞれが自分の領分を持っているのであり、一方で他方を代用するわけにはいかず、また一方が他方より優れているともいえない、と言うのである。

哲学と科学とは基本的に異なっている。科学は事象から出発してそれを概念という形に抽象することを仕事としている。抽象をベルグソンは、物質から抽き出したものという言い方をしているが、その場合の物質とは事象と言い換えてもよい。事象から抽き出したものを概念という形にまとめ、その概念を用いて事象を説明するというのが科学のやり方である。それに対して哲学は直観から出発する。直観とは単純なものである。別に抽象など必要としない。それ自体が豊かな泉なのであり、人間はそれをそれ自体として楽しむことができる。科学は事象を抽象することによって、「運動は様々な位置の系列であり、変化は様々な性質の系列であり、生成は様々な状態の系列である」と考えるが、そのことによって、運動とか変化とか生成といったものを一面的に捉えることになってしまう。それに対して直観は、そういったものを全体として捉えることができる。そういったベルグソンの考えは、「変化の知覚」でも表明されていたところだ。

科学が抽象的な作業をするわけは、我々人間が自然から具体的な結果を得たいからである。我々は自然に働きかけ、自然から一定の成果を得ようとする。そのための道具として科学を使う。科学は自然を法則性の相のもとに眺め、その法則を通じて自然に働きかけ、その結果としての一定の成果を期待する。その成果は人間の物質的な暮らしを豊かにするものだ。それに対して哲学は、人間内部の直観を享受する。その直観はそれ自体として豊かなので、我々はそれを科学的に取り扱う必要はないのである。ベルグソンは言う、科学者は「自然を相手に詭計を用い、自然に対して警戒と闘争の態度を取らなければならないのに反して、哲学者は自然を仲間扱いにします・・・哲学するということは単純な行為であります」(河野与一訳、以下同じ)

こういうわけであるから、哲学と科学は別のものだと割り切り、哲学は科学の領域に無理に入り込むことはない、というのがベルグソンの考えである。ところが歴史的に見れば、どの時代の哲学も、同時代の科学にあまりにも深く関ろうとしてきた。それのみならず、哲学こそは科学を基礎付けるものであり、科学の成果を一段高い視点から総合するものだと自慢してきた。ベルグソンはその好例としてスピノザとバークリーを上げている。スピノザについては、かれがすべての知を体系化しようとした意図を、たいしたものだといって脱帽して見せるだけで、深くは立ち入っていない。一方バークリーについては、いささか詳しく触れている。

バークリーの思想は、かれの同時代の支配的な思想を継ぎはぎしたものだとベルグソンは言う。バークリーといえば、唯心論で有名だが、唯心論に還元できるほど単純なものではない。バークリーの思想には、かれの同時代のさまざまな思想がごった煮のように含まれているというのだ。そのごった煮の材料となるものとしてベルグソンは四つあげている。物質は観念の集合である、とする観念論。抽象的普遍的な観念は言葉に帰着するとする唯名論。精神の事象性を確立し精神の特徴を意思だとする唯心論。物質の考察にもとづきながら神の定立を証明する有神論。この四つのものは、バークリー特有の思想ではなく、バークリーの時代に流通していたものをバークリーがとりあげて、それを継ぎはぎ細工的に自分の思想に盛り込んだのだとベルグソンは言う。「これら古代及び近世哲学の肉片を取って同じ釜に入れ、酢や油のように、数学的なドグマティズムに対する攻撃を含んだ一種のもどかしさと、司教をつとめていた哲学者としては当然な理性と信仰とを融和させたいという心持とを加え、念を入れて混ぜ合わせ搔き回し、更にそこへ薬味として新プラトン派から摘んできた幾つかの警句を投げ入れて御覧なさい。妙な言い方ですが、先ず大体バークリーの拵えたものに似ているサラダが出来ます」

しかしこういったやり方は、真の哲学者のやることではないとベルグソンは言う。「哲学者の任務は既に出来上がっている知識を手に入れ、それを段々と普遍的なところへ持って行き、凝集に凝集を重ねて所謂知識の統一と呼ばれたものまで進むことだというようになりましょうか。失礼ながら私は、科学の名において、また科学に対する敬意から、人がそういう哲学観を持ち出すのを変だと思っております」

こう言ったうえで、哲学と科学とはそもそも異なった領域を扱うものだと強調する。科学の扱うのは外的な自然であり、我々はそれを我々の望む結果を実現するために用いる。それに対して哲学が扱うのは、我々自身の内的な世界である直観であり、我々はそれをそれ自体として享受するのである。「哲学は特殊科学の総合ではありませんし、哲学がよく科学の地面に立ち時々は科学の扱っている対象をもっと単純な定義で把握することがあるとしても、それは科学を強化するわけでもなく、科学の成果を一層高い普遍性に持って行くわけでもないのです。経験が我々の目に二つの異なった面を見せ、一方では互いに並んで存し大体繰り返され大体測定され、はっきりした多様性と空間性の方向に展開する事実の形をとり、他方では法則や測定を拒む純粋持続という相互貫入の形をとって現われるものでないとすれば、哲学及び科学という二つの認識の仕方が生ずる筈はないでしょう」

ここで純粋持続と言っているのは、我々の内的世界としての意識である。その意識に直接与えられるのが直観である。直観には我々自身の内的な世界もあれば、その世界に映った外的な世界の姿もある。直観の特徴は、分節されていない生の状態のものがそのまま直接に与えられるということである。この直観によってものごとを見れば、「我々の鍍金がかった知覚の中で、剛ばったものが緩み、睡がっているものが目を覚まし、死んだものが生き返ります」

こういうわけであるから、直観は世界を見る目を基本的に変えるのである。それゆえ、直観に訴えることは世界を異なって見ることにつながるのであり、また直観が我々に訴えるのは、日常的な見方に疑いの目を向けよということなのである。ベルグソンはそういう観点から、直観をソクラテスのダイモンにたとえている。ダイモンはソクラテスに禁止を命じたのだったが、それと同じように、直観は日常的な視点を禁止することを命じるのだ。



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