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ベルグソンのウィリアム・ジェームズ論


ベルグソンとウィリアム・ジェームズは強い友情で結ばれていた。ジェームズのほうが17歳も年長だが、年齢の差を越えて互いに尊敬しあった。それは二人の思想に親縁性があったからだ。ジェームズは意識に直接与えられた感性的なものを自分の思想の土台として、ある種の唯心論を展開したわけだが、ベルグソンにも唯心論的な傾向が強い。ベルグソンの哲学的業績が「意識の直接的与件について」の考察から始まったように、かれの思想も意識に直接与えられた感性的なものを土台としている。そういう共通性が二人を強く結びつけたのだと思われる。もっともこういう意識内容を重視する思想(現象一元論と呼ばれる)は、当時流行していた新カント派にも共通するところで、その影響を受けた日本の西田幾多郎にも見られるところである。

ジェームズの強い意向を受けた形で、1911年にベルグソンの「創造的進化」の英語訳が出版され、それとほぼ同時にジェームズの「プラグマティズム」のフランス語訳が出版された。その時にはジェームズは死んでいたが、ベルグソンはこの偉大な友人に敬意を払って、自ら序文を寄せ、ジェームズの哲学的業績の意義について強調した。その序文の原題は「真理と事象(Vérité et réalité)」と題されているが、岩波文庫に収められた河野与一の日本語訳では「ウィリアム・ジェームズの実用主義」となっている。プラグマティズムを実用主義と訳したのは、プラグマティズムがまだ日本にいきわたってなかったことを反映しているのだろう。

原題にあるとおり、ジェームズの真理論と事象論がテーマである。まず事象論について。ここで事象と呼ばれているのは、ベルグソンが意識の直接的与件と呼んだものに相当する。それはとりあえず感性的なもので、悟性による分節を加えられていない、いわばナマの事象である。人間の悟性はこれに分節を加え、そのことで抽象的・普遍的概念を取り出すわけだが、そうすることによって、世界の概念的な把握とか因果関係の予測とかが可能になるかわりに、事象のもつ本来的な豊かさが損なわれる。科学の分野ではそれでもよいかもしれないが、芸術や生活の部面では、貧しさに甘んじなければならぬ。だから科学と生活とを区別して、生活の部面では感性的なものを尊重しようではないか、というのがベルグソンの立場であり、また一部ジェームズの意見でもある。

分節という作業は、事象の中からある特定のものを特別に取り出し、それを以て事象全体を代表させることである。それは他の物との差異によって表現される。分節とは差異化なのである。この差異化によって、事象は全体的な豊かさを損なわれ、その一部分に矮小化される。これをベルグソンは節約と呼んでいる。節約の結果事象としての自然は本来の豊かさを損なわれる。そこのところをベルグソンは次のように表現している。「我々の悟性が、その節約の習慣によって、結果はその原因と厳密に比例していると考えているのに、自然は浪費家であるから、結果を生ずるのに必要なよりも遥かに多くのものを原因の中に入れている。我々のモットーは丁度必要だけであるのに、自然のモットーは必要以上であって~これも余計あれも余計みんな余計なのである。ジェームズが見ている事象は豊穣過剰である」(河野訳、以下同じ)

ここでベルグソンが自然と呼んでいるのは、我々の意識に直接与えられた感性的な世界をさしている。我々はその自然を分節することによって、その豊かさを損なっている。それは自然を節約することだ。節約することは、それ自体として悪いことではないが、それが我々の生活を貧しくするのであれば、我々は節約を控えなければならないというわけである。

次に真理論について。ジェームズは「思考される前に感ぜられ生きられた真理」があると考える。真理とは、伝統的な考えによれば、判断された内容が実在する対象と一致することだと考えられている。判断は悟性の作用であり、思考の結果である。ところがジェームズは、思考される前に感ぜられ生きられた真理があると考える。感覚そのものが真理を含んでいるということか。感覚は流動的なものであって、しかも個別的なものである。それに対して思考の結果としての真理は、不動で普遍的なものだ。ジェームズはそういう不動かつ普遍的な真理のほかに、流動的で個別的な真理を認めているわけだ。よくわかりづらいところだが、具体的には次のようなことを意味する。

伝統的な考えによれば、真理とは既に実在するものとの関係において成り立つ。実在するものと一致することが真理の条件なのである。ところがジェームズにとっては、「真はそれまであった若しくは今ある何物かを模写するのではなく、これから出て来るものを予告し、もしくは寧ろこれから出て来るものに対する我々の行動を準備するものである。哲学は自然の傾向として真理が後を見るものだと考えたがるが、ジェームズにとっては真理は前の方を見るのである」。これもわかりづらい言い方だが、要するに、これから感性にもたらされるものを予測しそれに対して準備することが真理の働きということか。予測したものを実際にもたらすようなものが真理だと言ってもよい。

こんなわけであるから、伝統的な真理がある種の発見であるのに対して、ジェームズの真理は発明だといえる。すでにあるものを見出すのではなく、今はないものを予測しそれを実現するわけであるから、発見ではなく発明なのである。ジェームズのプラグマティズムは発明の哲学ということになる。そうだとすれば、世界とはすでに実在しているものではなく、たえず作られていくものだということになる。作るのは人間であるから、人間の数だけ違う世界が生まれる可能性がある。このように世界を人間の創造物だと捉えるところが、ジェームズのプラグマティズムのユニークなところだ。で、世界を人間の創造物だとすることは、形を変えた唯心論なのである。

最後に(ジェームズの)真理論と事象論との関連が語られる。「事象が一つの全体を形づくらず多様である動きがあり、互いに交わる幾つかの流れから出来ているとすれば、それらの流れのどれかと接触することから生ずる真理~考えられる前に感ぜられる真理~は、単に考えられた真理よりも事象そのものを捉えて蓄える力を余計に持っていることになる」。生きて流動している多様な事象を、そのありのままに捉えることが真理だということであろう。そんなふうに考えるジェームズをベルグソンは、「ジェームズほど熱烈な愛を以て真理を愛した人はいない。あれ以上の情熱を以て真理を求めた人はいない」といって、褒め称えるのである。


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