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可能性と事象性:ベルグソンの存在論


ベルグソンの小論「可能性と事象性」は、アリストテレスが提起し、西洋哲学の存在論を彩ってきた問題「可能態と現実態」の対立について、ベルグソンなりの回答を与えたものである。原題はLe possible et le réelとなっており、le réelを訳者の河野与一が事象性と訳したものだが、この言葉には現実性とか実在性といった意味も含まれる。ベルグソンはこの小論を1930年にスウェーデン語で発表した。1927年に受賞したノーベル文学賞への、遅ればせながらの受賞講演の代わりのつもりだったようだ。

「可能性と事象性」の問題は存在論の領域に属するものであるから、ベルグソンはまず存在とは何かについての議論から始める。存在についての議論、存在論は、哲学的思考がそこから始まるといってもよいが、それは「なぜ物は存在するのか」という問いから始まる。これは「なぜ有であって無ではないのか」とも言い換えられる。この問いに対してベルグソンは、「この問題は提出されてはならなかった」と答える。存在とは単純なものであって、「ある」からあるのであり、その根拠を問うこと自体が間違っている。「存在に先立って虚無があるなどと考えない限りこの問題は出て来ない。『なにもある筈がない』というものだから、何かが~もしくは誰かが~あると驚くのである」

ところがこの「無」という言葉は、「人間に固有な地盤、行動及び製作の地盤に留まらない限り意味のないものである。『無』は、我々の求めるもの、我々の欲するもの、我々の待っているもののないことを示している」。同様に、空虚というものもない。「我々は充実しか知覚せず、思惟することさえない。一つのものが消滅するのは、他のものがそれに代っているからである。そこで除去は代替を意味する。ただ代替の二面のうちで我々が関心を持つ一面しか見ない時に『除去』というのである。」

要するに無があってそれを有が満たすのではない。無とは有の容れもののように考えられているが、実はそうではない。無とは、我々が期待しているものの不在を言うのであって、無自体があるわけではない。無が有の根拠なのではなく、有が無の根拠なのである。

無との関連で、無秩序についても同様のことがいえる。無秩序は秩序の不在のように考えられているが、実はそうではなく、我々が求めていない秩序のことを無秩序と言うのである。だから無秩序も一つの秩序である。その秩序が我々の期待しないものであるから、我々はそれを無秩序と呼ぶのである。

以上のような議論が、本題である「可能性と事象性」をめぐっても展開される。アリストテレス以来の伝統的な考えは、可能性が先にあって、それが実現することで事象性(現実態)になるというものだった。これは「可能性はその実在に先立つ」というふうに表現される。「そう考えると事物はあらかじめ表象されるものとなり、事象化(実現)される前に思考することができると考えられる。しかしその逆が真理なのである」

逆だというわけは、可能性とは実現されたものが過去に投影されたものだからだ、とベルグソンはいう。あることがらが現実に起きたときに、それが過去に投影されて、いくつかあった可能性のうちの一つが実現した、などと言うのである。「可能的なものは過去の中にある現在の蜃気楼なのです。我々が未来は今に現在になるということを知っていて、そういう蜃気楼の結果が休みなく続いて生ずるものですから、我々は、明日の過去になる我々の現実の現在の中に、明日のイメージが、我々には摑まえられないけれども既に含まれていると考えるのです。それは全く錯覚です」。ベルグソンはこう言って、「可能的なものは実在を獲得することによって事象化されるという思想は、全くの錯覚です」と断言するのである。

伝統的な存在論にはそれなりの根拠がある。それは世界を因果関係の連鎖として見ることを基礎としている。因果関係の理解は、我々に未来への予見可能性をもたらす。未来への予見可能性が高まることは、我々に自然を適切にコントロールする能力を与える。その能力を用いて人間は進化してきたわけである。そうした人間精神の態度は、時間と空簡についての特別な仮定に基づいている。我々は、時間も空間も分割可能だと考え、どんな事象でも分割された無限の部分が合わさって出来ていると考える。これは微積分の考えに通じるもので、我々の自然理解をそれなりに促進するものだ。だから悪いことばかりではないのだが、そればかりに依拠すると、人間の生き方は貧しくなる、とベルグソンは考えるのである。

時間についていえば、時間は分割できない持続だというのがベルグソンの考えである。持続はある時間の幅の中で展開する。その時間の幅の中で事象が生成する。その事態を敷衍して、ベルグソンは次のように言う。「時間はすべてのものが一遍に与えられていることを妨げているものである。時間は遅れさせる、というよりも寧ろその遅延である。そこで時間は仕上げの仕事でなければならない。して見ると、時間は創造及び選択の乗り物ではないであろうか。時間の実在は事物の中に不決定があることを証明しているのではあるまいか。時間はこの不決定そのものではあるまいか」

科学的思考は不決定をきらう。それをわざわざ強調して時間を創造の乗り物というベルグソンの思考は、科学的な思考とは言えないようである。

空間についてのベルグソンの考えも、科学的とは異なる。科学的な空間論は空間を分割できるものと考える。分割できるからこそ、数学の対象となり、世界を微積分的に見ることができる。ベルグソンは空間を事物の拡がりと言い換えたうえで、次のように言う。「事物には持続があるように拡がりもある。しかしその具体的な拡がりは悟性が建設するための地面と考えている無限なかつ無限に分割される空間ではない。具体的な空間は事物から抽き出してきたものである。事物がその空間の中にあるのではなく空間が事物の中にあるのである。ただ、我々の思考が事物に対して推理を始めると、それは空間を容器にしてしまう」

ここでのベルグソンの空間論は、伝統的な空間論への反論に留まっていて、具体的な事柄には踏み込んでいない。この空間論に限らず、この小論におけるベルグソンの意図は、伝統的な考えにとりあえず風穴をあけることにあったようである。



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