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哲学の方法:ベルグソンの方法序説


ベルグソンは「思想と動くもの」を刊行するについて、未発表の二編の小文を緒論として置いた。河野与一訳の岩波文庫版では、三分冊の最後に置かれているが、原著では冒頭に置かれている。また、河野訳では、便宜上「哲学の方法」という総題が付されているが、これは緒論の扱っているテーマを要領よく表現したものといえる。この緒論は、哲学の基礎となるものをまとめたもので、ベルグソンなりの方法序説と言うべきものであるからだ。

最初の小文は直観と概念の関係について、第二の小文は哲学と科学の関係について、それぞれ詳細に述べている。直観と哲学、概念と科学はそれぞれ対応する関係にある。科学は概念に基礎付けられ、哲学は直観に基礎付けられる。だから哲学と科学とは本来異なったものを対象とし、したがってその基本的なあり方に大きな相違がある。ところが世の哲学者たちは、本来科学のものである概念のうえに哲学を基礎付けようとしてきたために、哲学本来のあり方を見失った。哲学本来のあり方を取り戻すためには、概念ではなく直観の上に基礎付けなければならない、というのがベルグソンの考えであり、そういう意味での哲学の方法論である。

まず、最初の小文を取り上げる。ここでは、直観と概念の相違について述べられる。概念は抽象的でかつ普遍的である。それはまた不動なものでもある。人間にとって現象とは本来具体的で変化しているものであるが、それでは現象の本質はつかまえられないと人間は考える。そこで人間は経験に与えられた現象について、そこから不動で普遍的なものを取り出して、それを抽象的な概念に高める。そのうえで、その抽象的な概念にもとづいて具体的な現象を説明しようとする。この関係を典型的に現しているのが、イデアとその影についてのプラトンの学説である。プラトンは現象から不動なものを取り出してそれをイデアと名づけ、そのイデアをもとに現象を説明しようとした。それによれば現象はイデアの影のようなものなのである。

こうした考えは、科学にとっては欠かせないものである。科学というものは、基本的には人間の行動にとって役立つことを目的としている。その場合に重要なのは、行動にとっての予見可能性である。これこれこういう行動をとれば、これこれこういう結果が得られる。そういう関係が成り立つためには、因果関係についての理解が重要になる。その因果関係というのは、概念的な思考に支えられている。したがって概念的な思考は科学にとって欠かせないものとなるわけである。

ここまではごく当然のことで、ベルグソンも科学が概念的な思考に支えられていることには全く異議はないのだが、問題は、その概念的な思考を哲学にも持ち込むことから起こる。ベルグソンによれば、哲学と科学とは異なった目的を持っている。科学の目的は、先ほども触れたように、人間の行動に指針を与えることである。だから因果関係の理解とかその基礎となる概念的思考が条件となる。それに対して哲学の目的は、人間の生き方を豊かにすることだとベルグソンは考えているようだ。人間の生き方というものは、対象的な自然を操作することだけに限定されない。芸術や宗教も含めた多面的な生き方が重要である。そうした側面は科学によっては満足されない。なぜなら、科学は対象的なものから、その一面を切り取って抽象化することから成り立っている。つまり豊かな世界のほんの一部を相手にしているにすぎない。ところが世界とはそんな一面的なものではない。それは無限に豊かである。その無限の豊かさを、科学では享受できない。

科学が概念を基礎とするのに対して、哲学は直観を基礎とすると言った。直観とは、ベルグソンによれば、世界がその全体性を失わないで、直接人間に与えられることを意味する。それは無限に豊かなものである。その無限に豊かなものを人間はどのようにして受け取るのか。それについては、意識の表層部分のみではなく無意識を含めた全体的な精神活動がかかわるというふうに考えていたようだ。人間は無意識を含めた精神活動の全体を動員して対象的な世界を直観し、その後に意識の分節作用を駆使して概念的な認識をするのだが、それは人間の精神活動のほんの一部に過ぎない。人間の精神活動は、それこそ無限に豊かなのである。その無限の豊かさを損なわないように、人間の精神活動を制御するのが哲学の役割だとベルグソンは考えるのである。

直観は、一瞬のうちに成立するわけではない。時間の拡がりのなかで連続的に与えられる。直観とは意識活動の一つだが、その意識というものは時間的な持続から成り立っている。意識とは純粋持続だというのがベルグソンの基本的な立場である。ところが科学的な思考が絡んでくると、こうした時間の本質が誤って理解されるようになる。時間は本来持続として切れ目のない連続のものなのに、あたかも瞬間という点が合成されたものだと捉えられることになる。これは空間が点から成り立っているとする考えを、時間に応用したもので、つまりは概念的な思考の要請といえるものだ。だが時間の本質は概念的思考によっては捉えられない。それは直観するほかはない。なぜなら直観は時間の持続のなかで連続的に与えられるものだからである。

従来の哲学の最大の誤りは、時間を見損なったことだとベルグソンは考える。時間の属性である「継起を出来損ないの同時実在と扱い、持続を永遠性の欠無と扱い、その結果哲学者は、どうやって見ても、根本的に新しいもの及び予見のできないものを考えるところまで行けなくなっている」(河野訳)。そう指摘した上でベルグソンは、「運動にはその動きを変化にはその流動を時間にはその持続を」と主張し、「そうすれば哲学は経験そのものになる。持続は本来の姿をとって現われ、連続的な創造新しいものの絶えざる湧出になる」と言うのである。

ところで、ベルグソンが直観の働きを強調するとき、それによってどのような内容が与えられると考えているのか。とりあえずは日常的な経験に対応するようなものだと思われるのだが、それにとどまらない、もっと豊富な事象が直接に与えられると考えているようである。それについてベルグソンは、「私の分析からは、事象の少なくても一部分、我々の自我は、その本性のままの純粋な姿で把握することができるという結論が出た」と言っている。この「本性のままの純粋な」姿とは、悟性によって分節される以前の、事象のありのままの姿ということのようだ。それをベルグソンはカントの「物自体」という言葉を使って言い表している。カントは「物自体」は認識できないと言ったわけだが、ベルグソンはそれを、人間は直観を通じて認識できると言っているのである。



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