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物質と記憶:ベルグソンのデカルト的二元論


ベルグソンが「時間と自由」の中で展開して見せたのは、精神と物質をめぐるデカルト的な二元論を20世紀に復活させるものだった。物質は延長によって特徴付けられる、それに対して精神は非延長的なものであって、その本質は持続としての時間にある。延長すなわち空間的なものと、持続すなわち時間的なものとは全く異なった原理に立っている。だから混同すべきではない。ところが大多数の人々は両者を混同している。それも時間を空間化するという形で。その結果奇妙なことが沢山起きる。エレア派のゼノンが提出した詭弁はその最たるものだ。そういう錯誤を避けるためには、精神と物質とを、全く異なったものとして峻別せねばならない、というのが「時間と自由」という著作の基本的内容だった。

そういうベルグソンの思想は、19世紀末以来勢力を強めてきた二つの思想動向への反発がもたらしたものだと思う。その二つとは、新カント派を中心とする現象一元論とマルクス主義者を中心とする唯物論だ。現象一元論はベルグソンによれば観念論ということになる。観念論には唯心論も含まれる。どちらも、精神的なものを手がかりにして、そこから世界を説明しようとする。物質的な世界の根拠は精神的なものにあるとするわけだ。それに対して唯物論のほうは、精神的なものを物質によって根拠付ける。観念論も唯物論も、精神と物質というものの存在を前提として、そのどちらか一方によって他方を根拠付けるという点では、同じようなものである。ただベクトルの方向が逆なだけである。

そういう一元論的な見方に対してベルグソンは徹底した二元論の立場をとる。少なくとも「時間と自由」においてはそうであった。精神と物質とは全く異なった原理に立ち、したがって異質なものである。混同することは許されない。とはいっても、全く無関係というわけでもない。それは我々の常識が示すとおりである。我々の常識は、精神的なものと物質的なものとが一定の対応関係にあることを示している。どのようなメカニズムでそうなるのか。その疑問に答えなければならない。「物質と記憶」はその疑問に答えようとしたものなのである。

精神と物質との関係については、すでにデカルトも「心身問題」という形で意識していた。精神と物質とは全く異なった二つの実体であるのに、なぜその二つの間に対応関係が生まれるのか。実体同士は互いに影響を及ぼしあわないというのがデカルトの前提であった。というのも、互いに影響を及ぼしあうものは、同じ一つの類概念の中の種差ということができるからだ。完全に異なった実体同士は、それぞれそれ自身の中で完結している。だからそのような実体としての精神と物質とは、たがいにかかわりあう接点をもたない。それなのに常識は、精神と物質つまり身体とが互いにかかわりあっていることに気づいている。それはどういうことなのか。

デカルトはこの疑問に満足な答えを見つけることができなかった。ライプニッツとスピノザもデカルトの「心身問題」を引き継いだが、やはり満足な答えを見つけられなかった。かれらは心身間の対応関係を、予定調和とか神の摂理だとかいう言葉で説明しようとしたが、そういう言葉では、何も説明したことにはならない。予定調和や神の摂理に訴えるということは、自分の無能力を認めることに他ならないからだ。

ベルグソンは、そういう歴史的ないわくのある哲学的問題を、20世紀になって改めてとりあげ、それにかれなりの説明を付与しようとしたわけである。かれの説明をごく単純化して言うと、我々人間が生きている世界は、精神と物質というそれぞれ異なった原理に立つものから成り立っており、一方だけでは成り立たない。唯物論者の言うような物質だけでは成り立たないし、観念論者の言うような精神だけでも成り立たない。この二つが協働しあうことで初めて世界は成り立つ、というようなことである。

こうベルグソンが言う場合、世界の成り立ちには人間個人が深いかかわりをもっている。世界は唯物論者の言うようには、物質だけで成り立つわけではないのだ。たしかに私という人間が存在しなくても、物質的な世界は存在を続けるだろう。だからといって、精神的な存在としての人間を除いては、世界は世界として成り立たない。つまりベルグソンは、世界の存在についての議論、つまり存在論を、人間を不可欠の要素として展開するわけである。というわけは、かれの存在論は認識論と一体化しているということだ。存在論と認識論とは、いちおう異なった範疇の概念だが、ベルグソンはそれを一体化する。認識論を離れた存在論はありえないというのがかれの基本的な立場だ。

ところで「心身問題」という言葉は、人間は物質である身体と精神である心からなっているとする考え方をあらわしている。ベルグソンによれば、物質も精神もそれぞれ自立した存在、古い言葉で言えば実体である。精神を実体とする見方はデカルトの実体論に忠実であることを意味する。その点ベルグソンは徹底したカルテジアンなのだ。そういう前提に立った上でベルグソンは人間の認識のメカニズムを考究し、それによって存在論を基礎付けようとする。

議論のきっかけとしてベルグソンが取り上げるのは知覚である。知覚とは要するに認識の起点のことである。「自由と時間」の中で、意識に直接与えられたもの、すなわち直観と呼ばれたものに相当する。カントなら感覚と言ったものだ。ベルグソンもカントと同様に、この直感的なものにさまざまな工夫が施されることで、人間の高度な認識が成立すると考える。カントは、直観を材料として、それにアプリオリな認識枠組を当てはめることで高度な認識が成立すると考えた。その認識枠組とは、人間の精神に先天的に備わったものだった。その意味では本能のようなものである。動物は原始的な本能によって対象を弁別し、状況に相応しい行動をとるわけだが、人間の場合には先天的に備わった認識枠組を用いて対象を弁別し、そこから高度な認識を形成していくと考える。

ベルグソンの場合、カントのアプリオリな認識枠組に相当するのは記憶である。記憶にはさまざまなレベルが考えられるが、その基本的な役割は、知覚に意味を与えることである。そうすることで知覚は行動を導くものになる。ベルグソンの基本的な思想として、人間というものは本来行動的なもので、自分が直面する事態に対して適切な行動をすることを通じて人間らしい生き方をしているという考えがある。その場合に人間にとって適切な行動に導くのが、記憶の役割なのである。人間は当面する知覚に直接結びつくような記憶を引っ張り出してきて、その記憶をもとにして、知覚がかれにとってどのような意味を持つのかを、瞬時に判断する。それによって、望ましい行動がもたらされるというのである。

記憶は後天的に獲得されるものだから、ベルグソンの認識論は、経験論の一変種と言ってもよい。人間は経験によって獲得したものを記憶という形で保存しておいて、新たな知覚にともない必要な都度それを現前化させ、以て知覚に意味を付与し、適切な行動に結びつける、というような設定になっている。

構造主義者たちや日本の広松渉もまた、人間の知覚作用における枠組を問題にした。構造主義者たちはその枠組を文化的なものと関連させた。構造とは文化的なものなのだ。その点では経験論と通じるのだが、まったく経験一点張りというわけでもない。一方広松のほうは、その枠組を共同主観的なものと規定した。共同主観的というのはわかりぬくい言葉だが、要するに人間の共同体が作り上げたものということだろう。その意味では構造主義者のいう構造と、似通ったところがある。


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