知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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ベルグソンの無意識


ベルグソンは、無意識を哲学の主要なテーマとして持ち込んだ最初の西洋人ではないか。東洋では、無意識の問題は馴染みの深いものだった。大乗仏教の唯識哲学などは無意識を正面からとりあげているし、同じくインド思想から生まれたヴェーダンタ哲学なども、無意識を重視していると井筒俊彦は指摘している。井筒によれば、イスラム教シーア派の神秘思想やユダヤ教の神秘思想などにも無意識を重視する流れはあるようだ。小生は、ベルグソンの無意識をめぐる思想は、フロイドのそれと並んで、ユダヤ教の神秘主義思想あたりに根源があると見当をつけている。

じっさい、ベルグソンとフロイドとは、同じくユダヤ人として、ほぼ同時代に無意識の問題に取り組んだのである。フロイトのほうが三歳年長で、その分早く無意識の問題に取り組んだ。ベルグソンも心理学には大いに関心を持っており、フロイトに言及することもあったが、そんなには強調していない。やはり方法論の違いが大きかったからと思われる。フロイトはヒステリーなどの精神病理現象の研究を通じて、意識化されていないものとしての無意識的なものの存在に注目したわけだが、ベルグソンのほうは、知覚の研究を通じて、知覚を成り立たせる要素としての記憶が無意識の存在に留意させたのである。

また、無意識の捉え方についても、フロイトとベルグソンとの間には相違があった。フロイトは、無意識的なものが精神病理に大きな役割を果たすことには気づいたが、無意識を実体的なものとは考えなかった。かれは後にユングとの接近と離別という体験をしたが、ユングと決別した最大の理由は無意識の捉え方の相違であった。ユングは無意識を含めた人間の精神を実在するものとしたばかりか、その実在する精神が個人間のテレパシーや世代を超えた遺伝の根拠となるというような主張をしたわけだが、フロイトの場合は、無意識はどちらかというと方法論的な要請に基づく仮説であって、かならずしもその実在性にこだわったわけではない。ましてはユングのいうような神秘的な要素を無意識に認めるものではなかった。

ベルグソンは、無意識を精神の重要な構成要素として、その実在性を主張した点ではユングと同様である。もっともユングのような神秘的な色合いを無意識に認めたわけではなかった。無意識の実体を記憶と見た上で、その記憶に実在性を認めたのである。そんなことからベルグソンの無意識論は記憶論の延長である。フロイトの場合にも、無意識は抑圧された記憶というような扱いが見られるが、無意識を記憶だけにはとどめていない。もっと広い要素からなるものと考えている。たとえば抑圧された情動等を含むものとしてである。

さてベルグソンは、無意識の哲学上の扱われ方を批判しながら、自分の議論に進んでいく。ベルグソンは、無意識を考えようとしない西洋哲学の伝統を次のように批判する。「吾々が無意識的精神状態の存在を考えようと欲しないのは、第一に、吾々は意識を精神状態の本質と信じ、従って精神状態は存在することを止めなくては意識的なることを止めることができぬと考えるからである。けれども、若し意識を以て現在、即ち現実的体験、つまり活動的なものの標識とすれば、固より活動しないものは最早意識に属しないであろうが、然し必ずしも或仕方では存在せぬとは限らない。換言すれば、心理学的領域においては、意識は必ずしも存在と同一義でなく、単に現実的活動または直接的効力と同義である」(高橋里美訳、以下同じ)。つまり意識的なものと無意識的なものとからなる精神全体が存在しているのであって、意識的なものはその現実的な現われであって、精神の活動の一部に過ぎないというのである。

人間の精神活動を意識的なものに限定すれば、精神の存在性格に強くこだわる必要はなくなる。じっさいカントとその後継者たちは、精神を現象としてとらえ、それに満足していた。ところが、精神を意識的なものと無意識的なものとからなる複合的なものと考えれば、精神の存在性にこだわらざるをえなくなる。無意識を認めれば、それがどこに存在しているかを説明せねばならないからである。ベルグソンの無意識は、記憶と同義と考えてよいから、無意識の存在をめぐる議論は、記憶はどこに存在しているかという形をとる。従来の記憶を巡る議論の主流は、記憶の存在する場所として脳をあてた。脳のある領域に記憶が蓄積されるという説である。この説をベルグソンは、多くの証拠を動員しながら反駁し、記憶は物質的な基盤をもつのではなく、あくまでも精神的なものだとした。その上で、精神の存在を強調するのである。

それには、人間の精神を持続ととらえるベルグソンのユニークな考えが作用している。人間の精神活動は、瞬間的な出来事の複合ではなく、不可分一体の出来事がある一定の持続の幅の中で展開している。その持続の幅の中には、意識的に現前しているものもあれば、無意識の底にとりあえず忘却されてしまうものもある。忘却されたものは、存在しなくなったわけではなく、ただ意識されなくなっただけのことである。だから何かのきっかけで、現在の意識の中に現前化する。その現前化をうながすのは知覚の働きである、というのがベルグソンの考えである。

つまり人間は、意識の与件として示される膨大な対象の中から、とりあえず自分の行動にとって有意味なものだけを意識しつづける一方、どうでもよいようなものは、速やかに意識の対象から排除する。そうしなければ、情報を有効に処理することなどできない。この操作は、一定の幅の時間の中で展開するものであるが、同一の時間の中で空間的に展開するものもある。我々は一時に膨大な対象を感知するが、そのなかで意識的な対象として保持し続けるのはほんの一部であり、大部分は意識の表面から排除する。その作用は従来、分節とか限定とか呼ばれてきたものだ。そのあたりのことをベルグソンは次のように言っている。「記憶が吾々の現在の状態に付着している関係は、知覚されない対象の吾々の知覚に対するそれと全く同様のものであって、無意識的なものは両方の場合において同一の役をつとめているのである・・・現実的意識はその瞬間々々に有益なものだけを採用し無用なものは即時に排斥してしまうという事実に基づくのである。現実的意識は常に動作に傾くものであるから、吾々の過去の知覚の中で、現在の知覚に結合し、最後の決定に協働するものの外は実質化することができない・・・空間における知覚せられざる対象と時間における無意識的記憶とを二つの根本的に違った存在の形式と考えるべきではない。ただ活動の要求するところが二つの場合において相反するだけである」

以上のように説明した上でベルグソンは、「存在とはなにか」という問いにかれなりの答えを出す。それは次のようなものである。「存在は二つの条件、即ち(一)意識における現前、(二)かく現前するところのものとその先行者及び後行者との間の論理的乃至因果的連絡とを一緒に包含するということである。精神的状態若しくは物質的対象の、吾々に対する実在性は、吾々の意識がその対象を知覚し、またその対象が互いに制約しあう時間的乃至空間的系列の一部をなすという二重の事実に成立するものである」。無意識的なものが意識に現前するのは、知覚の作用を巡ってである。無意識であった記憶が、知覚を成立させるための要因として記憶心象という形で現前化される。それは記憶が、意識に現前化している対象との間に論理的乃至因果的連絡をもっているからである。


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