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創造的進化:ベルグソンの思想


進化論を哲学のテーマとして取り上げたのはベルグソンが最初であり、また本格的な哲学的進化論としては、最後の人でもあった。ベルグソンの進化論への関心は、哲学的処女作ともいえる「時間と自由(意識の直接与件)」の中で既に表明されていた。「時間と自由」が発表されたのは1888年のことで、ダーウィンが「種の起源」(1859年)を刊行してからまだ30年にもなっていない。その短い期間に、スペンサーによる進化論の俗流化が始まっている。ベルグソンが取り上げた進化論は、そのスペンサー経由のものであった。スペンサーは、ダーウィンの自然選択説を換骨堕胎して、適者生存説をぶち上げたわけだが、ベルグソンはその適者生存説に大きな影響を受けたようである。ベルグソンの思想の特徴は、人間の知性の働きを、生存の便宜性と関連付けることだが、その人間にとっての生存の便宜性こそは、適者生存と深いかかわりを持つのである。

ベルグソンは、人間の知性を、行動との関連において考察した。人間が生きているということは、基本的には行動するということである。適切な行動をするためには、様々な条件が介入するが、なかでも対象を不動のものとして認識することが必要である。不動のものであってはじめて、安定して確固とした明確な知覚が保証される。その明確な知覚にもとづいて将来を予測し、その予測の実現に向って注力する、というふうに人間の行動のシステムは出来ている。対象が流動的であったり、不明確であったりしては、適切な行動はとれない。そうした人間のあり方は、人間の知性をも規定する。それは人間が人間として生きていくための制約となっている。その制約は、進化の過程の中で形成されてきたものだ。その進化は、スペンサーのいう適者生存のプロセスを反映したものである。人間にとっては、対象の悟性的認識、すなわち対象を不動で明確に分節されたものとして捉えるというあり方が、人間として生きていく上での条件となる。その条件が人間にとっての適者生存の条件となった、とベルグソンは考えたわけである。

「時間と自由」の中でベルグソンは、人間の意識の本質を時間性(持続)に求め、それを空間的な認識と対立させた。空間的な認識とは悟性的な認識のことである。これは行動と深く結びついており、したがって人間の生存条件と深く関りあう限りで合理性をもっているわけだが、人間の人間としてのあり方は、単に悟性的な生き方にはとどまらない、というのがベルグソンの基本的な立場だった、人間は単なる悟性的な存在、つまりホモ・サピエンスたるにはとどまらない。人間にはそれを超えた広くてしかも深い可能性があるはずだ。そうした可能性をトータルに実現することが、人間性の真の解放である、とベルグソンは考えたのであった。人間には、知的な生き方と共に、芸術的あるいは宗教的な生き方も必要なのだ、というわけである。

それにしても人間というものは、悟性的な生き方に特化する傾向が強い。それは適者生存という進化の道筋にかなったものだった、というのがベルグソンの考えである。だからそれなりに理由があるわけで、それはそれで受け入れざるをえない。しかしそれで以て人間の生き方がすべてカバーされると考えてはならない。人間にはそれ以外の可能性もあるのだ。そうした可能性を考えるについても、進化の本質について深く知っておく必要がある。進化の中で人間がなぜ悟性的な認識を発達させてきたのか、また、それ以外の進化の可能性はなかったのか、そういうことを知ることで、人間の可能性が拡大される。そうベルグソンは考えて、自分なりに進化についての考察を深めたいと思うに至ったのであろう。ベルグソンはその思いの実現に、「創造的進化」の中で取り組んだわけである。

進化についてのベルグソンの考えは、ダーウィンの自然選択説にもとづく機械論的進化論や、スペンサーの適者生存説及び新ラマルク派の形態遺伝説など目的論的進化論との対立の中から形成されたようである。ダーウィンの自然選択説は、進化を全くの偶然の産物とするものだった。そうした考えでは、進化に見られる一定の傾向性が説明できない、とベルグソンは考える。目的論的な進化論なら、進化に認められる一定の傾向性が説明できるが、しかし自然の歩みを目的の概念から説明するのは、現象を外部から説明することであり、その点では機械論と異ならない。目的論と機械論とは、方向が逆なだけで、同じ前提に立っている。それは、機械的な因果関係ですべてを説明しようとするものだ、そうベルグソンは言って、進化についての独自の主張を展開するのである。

ベルグソンの進化論の中核的概念は、有名な「エラン・ヴィタール」である。これを岩波文庫版の邦訳(真方敬道)では、「根源的なはずみ」とか「衝力」と訳している。地球に生命が誕生したときに、この「エラン・ヴィタール」が働いた。以後、あらゆる生命の動きをこの「エラン・ヴィタール」が推進している、というのがベルグソンの基本的な考えである。「エラン・ヴィタール」の内実は、生命原理ともいうべきもので、あらゆる生命はこの「根源的なはずみ」によって動かされている。その「はずみ」が進化の原動力になった。すべての生命は、この「はずみ」を共有している。だから、植物も動物も同じ生殖原理を共有しているのであるし、さまざまな動物の間にいろいろな共通点を指摘できる。そういう共通点の存在は、ダーウィンの機械論的進化論では説明できないし、単なる適者生存でも説明できない。

ベルグソンの「エラン・ヴィタール」は、生命の内在的な原理である点が最大の特徴だ。全ての生命がこの原理によって動いている。生命が生まれたのは、この原理が働いた結果であり、その後の進化もこの原理によって進んできた。すべての生命は、唯一つの祖先から生じたのであり、その祖先から扇状に広がるような進化の過程をたどってきた。ダーウィンらの進化論は、とかく一直線上にすべての進化を位置づけようとするが、ベルグソンは、進化は扇状に放射的に拡散するかたちをとってきたと考える。その扇の骨のうちで、人間が属するグループと、節足動物の膜翅類が属するグループがもっとも高度な進化をとげたとベルグソンは言う。人間は悟性的な認識がもっとも高度に発展したものであり、膜翅類は本能がもっとも高度に発展したものである。人間にはもともと知性と本能と両方とも存在していたのだが、その中で知性のみを専ら発展させ、本能は背後に退ぞいた。だが、場合によっては本能が顕在化することもある。一方膜翅類のほうは本能に縛られているとはいえ、知性が全く存在しないわけではない。あらゆる生命は、知性的な傾向と本能的な傾向を共存さているのであり、それが進化の都合で、どちらか一方を最大化したというふうにベルグソンは考えるのである。

あらゆる動物には、低級なものも高度なものも、視覚器官がそなわっている。アメーバのような原始的な生物でも、視覚機能は、光への反応という形で備わっている。そうした機能は、そもそも「エラン・ヴィタール」のなかに含まれていたものである。みな同じ生命原理を共有しているからこそ、さまざまな種にまたがって同じ機能が見られるのである。こういう具合にベルグソンの進化論は、「エラン・ヴィタール」という内在的な原理にしたがって生命の進化を説こうとするものである。

ベルグソンの進化論には、もう一つの要素がある。持続の考えである。持続はもともと、人間の意識の本質として抽出された概念であるが、後に生命全般に適用されるようになった。持続とは、たえず新たな創造が行われるという考えを内在させている。人間の意識がモデルであるが、人間の意識というものは、同じ状態にとどまることがない。たえず新たに創造されている。その不断の創造のプロセスが持続を持続させるのである。ところで、進化とは時間の中で成就するものであり、時間の本質が持続にあるということから、進化とは絶えざる創造のプロセスと言い換えることができる。単なる進化というものはない、創造的な進化こそ、進化の本質だ、とベルグソンは考え、その考えを「創造的進化」というタイトルで陳述したわけである。


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