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ベルグソンの意識


ベルグソンが「時間と自由(意識の直接与件)」を書いたとき、意識はとりあえず人間を前提としていた。ベルグソンには唯心論的な傾向があるから、精神的な原理が世界を基礎付ける可能性は大きかったわけだが、「時間と自由」の段階では、精神的な原理の担い手としての意識は、人間の精神に極限されていたのである。ところが、「創造的進化」を書くに至り、ベルグソンは意識を、人間に局限されたものではなく、世界全体の生成を基礎付けるものとして捉えなおした。意識はもはや人間の内部に閉じ込められてはおらず、世界全体の生成原理に高められたのである。

そうなったわけは、進化についてのベルグソンの捉え方にある。ベルグソンは、ダーウィン流の機械論的進化論と、スペンサー流の目的論的進化論のいずれをもしりぞけ、創造的進化と呼ぶ独特の進化論を提示した。それは、世界の生成をもたらしたものとして「エラン・ヴィタール」というものを設定し、世界はこの「エラン・ヴィタール」によって動かされているとするものである。この「エラン・ヴィタール」が働いているおかげで、進化にはある一定の秩序が生まれる。そうした秩序は、機械論や目的論では説明できない。やはり「エラン・ヴィタール」自体に、そうした秩序をもたらす傾向が内在していると考えることで、綺麗に説明できる。ではその「エラン・ヴィタール」はどのような原理なのか。ベルグソンはそれを意識のようなものだと考える。世界はその意識的なものとしての「エラン・ヴィタール」によって動かされ、進化してきたとベルグソンは考えるのである。

ところで、ベルグソンが進化の問題を取り上げるとき、とりあえず念頭にあるのは生命である。生命をもつものが進化の担い手と考えられている。ベルグソンにとって進化とは不断の創造である。不断の創造である点で、進化は精神的な色彩を帯びる。精神的なものはベルグソンにとって意識という形をとるわけだが、その意識の本質は持続ということにある。ベルグソンにとっての持続とは、たえず変化してつねに動いているものである。一瞬たりとも停止しない。つねに新しく変化している。あるいは連続している。そういう変化の連続性こそが、ベルグソンにとっては、生命の進化を突き動かしているわけである。

そのへんの事情をベルグソンは次のように言う。「変化の連続性、過去が現在に保存されること、本物の持続、生きものはどうも意識と一緒の属性をもつものらしい。もっと踏み込んで、生命は意識活動と同様に、発明であり不断の創造であるとまでいえるであろうか」(真方敬道訳、以下同じ)

ベルグソンがいう生きものには、動物は無論、植物も含まれる。その生きものが意識と同じ属性を持つというのであるから、植物もまた意識の属性を持つということになる。したがってすべての生きものに意識の属性を見るのがベルグソンの立場ということになる。

これは、とりあえず生命に関する意識一元論といってもよい。すべての生命を、意識という一つの原理によって説明するからである。そういう一元論的な傾向は、スピノザを思わせる。ベルグソンはスピノザを強く批判するわけだが、それはスピノザの機械論的な傾向への批判であって、実体を中心とした一元論的な世界観はベルグソンの意識一元論に通じるものがある。スピノザはユダヤ人だが、かれのユダヤ主義的な傾向は、ベルグソンも含めて、あまり指摘したものはない。しかし、世界を唯一の原理によって説明しようとするのは、ユダヤ教の神秘主義思想に強く見られるところである。スピノザには、そうしたユダヤ神秘主義は表立っては見られないが、ベルグソンの意識一元論にはその影響を垣間見ることが出来る。

以上は、意識についての、いわばマクロ的な説明である。意識にはそれと並んで、ミクロ的な部分もある。意識のミクロ的な部分とは、人間の意識のことだ。その人間の意識の特性についても、ベルグソンはユニークな見方をしている。ベルグソンの人間観の特徴は、人間の本質を行動に求めることだ。行動は、人間に限らずすべての生きものの本質でもある。生きものは、環境からの働きを受けたり、環境へ働きかけたりしながら、存在している。その存在の様式を行動というわけである。植物でさえ、植物なりに行動している。ましてや動物は、行動の主体そのものといってよい。動物の本質は行動することにあるというのがベルグソンの基本的な考えだ。

人間の意識は、この行動を円滑に進めるために特化されている。低級な動物の行動は本能的なもので、環境との間でストレートな関係を結ぶ。刺激と反応との間に隙間がないのだ。ところが人間の場合には、刺激と反応との間に隙間がある。その隙間が意識なのである。この隙間のなかで、意識はこれから実現すべき行動について予め表象する。そしてその表象を可能性として、それの実現に向って動くというのが、人間の行動の特性である。そのへんの事情をベルグソンは次のように言う。「生物の意識は潜勢的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義できよう。意識は表象と行動との間のへだたりの尺度である」

このように意識は、一方では生命のマクロ的な原理とされ、他方では人間の行動にとってのミクロ的な原理とされる。では、この二つの原理を結びつけるのはなにか。それがないと、それぞれを同じ意識という言葉で定義することはできない。それをベルグソンは持続とするわけである。持続とは、不断の創造であった。その不断の創造が、一方では生命にとってのマクロ的な原理となり、人間の意識にとってのミクロ的な原理となるのである。とすれば、生命とは創造的に進化するものだというベルグソンの定義に一定の合理性があるということになる。



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