知の快楽 哲学の森に遊ぶ
HOME ブログ本館 東京を描く | 日本文化 英文学仏文学プロフィール 掲示板




ベルグソンにおける在と無


存在と無をめぐるベルグソンの議論は、西洋哲学の伝統からかなり離れている。西洋哲学の伝統においては、この議論は、なぜ無ではなくて有なのかとか、無は存在の否定だとかいった形でなされてきたが、それらの議論に共通しているのは、存在と無を対立させる考えに立っていることである。無は非存在とされ、存在と鋭く対立させられる。無は存在の欠如なのである。こうした考え方を、ベルグソンはナンセンスだという。無は存在の欠如なのではない。存在の一つのあり方あるいは側面なのだとするのである。だからベルグソンは存在と無の二元論を排斥する。世界は存在によって充たされている、と捉えるわけである。

西洋哲学の伝統においては、存在は空虚を満たすというふうにイメージされてきた。その空虚が無なのである。だから存在は無の中に浮かんでいる、あるいは無を満たしているというふうに考えられる。しかしそれはナンセンスな考えだとベルグソンは言う。こうした考えは、あらゆる存在の抹消としての空虚を前提としているが、ベルグソンによれば、「一切の抹消というような観念はたぶん四角な円という観念とおなじ特徴をおびてくるのではないか。それはもはや観念ではなく言葉にすぎなくなろう」(真方敬道訳、以下同じ)と言うのだ。

我々が空虚とか無を語るとき、それはすべての存在の欠如を意味しているわけではなく、ある特定の存在者の不在を意味しているに過ぎない。以前そこにあった対象を、いまもあるに違いないと期待していたところ、それが見当たらない。そこで私は、そのものが存在しないことを以て、そこに無を見出すのだ、とベルグソンは言う。「だとすると私の語る空虚とは底をあらえばある特定の対象の欠無のことにすぎぬ。その対象がはじめここにあったのが今は別のところにあり、そこではもはや以前のところにないという意味でそれはいわば自分のない空虚を後にのこすのである」

ベルグソンはまた次のようにも言う。「空虚の概念を作ることは現にあるものとありうるものないしあるはずのものとの、充実と充実との比較にすぎぬのである。要するに、物質の空虚の場合にしても意識の空虚の場合にしても、空虚の表象はきまって充実した表象である。それは分析してゆくと積極的な二つの要素に、すなわち判明なあるいは雑然とした置換の観念と欲求あるいは後悔について体験されまた想像される感情とに分解する」

つまり、充実としての存在のみがあって、空虚としての無は、一切の存在の否定としてはありえないということになる。世界は存在で充たされているのである。それゆえ、次のように結論付けることができる。「絶対無すなわち一切の抹消という意味に解した無の観念は自己崩壊する観念であり、ニセの観念でありただの言葉にすぎぬ。あるものの排除とは他のものでそれを置換することであり、あるものの欠無を考えるためにはなにか他のものの現存を多少ともあらわに表象するほかなく、要するに抹消とは何よりもまず置換を意味しているとすると、『一切の抹消』というような観念は四角い円の観念に劣らず背理なことである」

存在と無をめぐる以上の議論と同じような議論が、秩序と無秩序との関係においても展開される。我々は無秩序を、秩序の抹消として考えがちだが、実はある秩序を別の秩序に置き換えたものに過ぎない。期待していた秩序と違う別の秩序がそこにあるのを見て無秩序だというにすぎない、というわけである。

存在と無、秩序と無秩序に関する以上のような議論は、人間の生き方と深いかかわりを持っている、とベルグソンはいう。人間はベルグソンによれば、基本的には悟性的な存在であるが、悟性というものは行動に奉仕するようにできており、その場合の行動とは、過去の経験から得られた認識枠組を将来に向けて適用することを基本的な機能としている。だから我々は、過去に経験した事柄が現在においても、また未来においても繰り返されるにちがいないと期待する。ところがその期待が裏切られ、期待していたものがそこにはないということになると、我々は非常な不都合を感じる。その不都合の感じが、存在の否定としての無とか、秩序の否定としての無秩序という観念を生み出す、というわけである。

こういう考え方は実践重視という点において、プラグマティックなものである。ベルグソンは若い頃からウィリアム・ジェームズに傾倒していたが、ジェームズはいうまでもなく「プラグマティズム」の主導者である。おそらくジェームズを通じて、ベルグソンは実践優位の思想を形成したのではないか。ジェームズにはまた神秘主義の傾向もあって、ベルグソンはその部分も影響を受けたようである。もっともベルグソンの神秘主義的傾向は、ユダヤ人としてのユダヤ教神秘主義の傾向にもつながっていると考えられる。


HOMEベルグソン次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである