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生命のビッグバン:ベルグソン「精神のエネルギー」


「精神のエネルギー」は、1919年に刊行されたベルグソンの論文集で、ベルグソンが折に触れて発表した論文を集めたものである。これは原型では二分冊になっており、一冊目が「心理学と哲学の特定の問題」を取り扱い、二冊目が哲学の「方法」について取り扱っている。このうち「「精神のエネルギー」と題して日本語(レグルス文庫)に訳されているのは一冊目である。

「心理学と哲学の特定の問題」というのは、精神とか意識とか呼ばれるものについての研究課題をいう。ベルグソンにとって、精神とか意識というものは生命に特有のものであるから、この論文集の共通の課題は生命ということになる。その生命をベルグソンは進化するものとして捉えた。ベルグソンの精神論は、創造的進化論という形で展開されるのである。

精神はなぜ進化するのか。ところで、この進化という概念には二つの意味が込められている。一つは、生命というもののもつ創造的な性格である。生命は、無機的な物質と違って自由をその本質としている。物質は必然性によって制約されており、すべてが因果関係のなかに解消される。ところが精神は、そうした制約から自由である。精神の本質は、つねに新しいことがらを創造することにある。つねに新しいものを創造するのであるから、それは世界に新たなものを常に付け加える。精神はだから世界をつねに創造しつつあるわけである。その創造のプロセスを別の言葉で言い表すと創造的進化ということになる。

ベルグソンの創造的進化論のもう一つの特徴、或は意味合いとして、エランヴィタールという概念であらわされるものがある。エランヴィタールとは、根源的衝撃とか衝力とか訳されるが、わかりやすくいえば、生命を開始させ、それを未来に向って活動させる原理である。命の始まりあるいは命の生成の原理といってもよい。生命には始まりがあり、それは未来に向って、おそらく永遠に進化していく、そのようにベルグソンは考えるのである。

生命には始まりがあるとする考えは、宇宙には始まりがあったとするビッグバンの考えとよく似ている。ビッグバンが理論的に主張されたのは1920年代後半のことで、ベルグソン自身はその考えに接する前にすでに創造的進化論を唱えていたから、ビッグバンのアイデアに直接影響された形跡はない。ただ、目の付け所には共通するところがある。ビッグバンは、宇宙が膨張しているという事実をもとにして、膨張しているのであるなら、その最初の一撃があるはずだという推論につながり、その推論から論理必然的に導き出された。ベルグソンの場合には、生命は進化しているという事情をもとに、進化には始まりがあるはずだと推論し、その結果として生命のビッグバンともいえるエランヴィタールの概念にたどり着いたのではないか。ベルグソン自身は明示的にそう言っているわけではないが、推論のパターンには強い共通性が認められる。

さて、この論文集の冒頭を飾るのは「意識と生命」と題する小論である。これは意識と生命との関係について論考したものだが、ベルグソンはこの両者の関係を全くの相似ではないが、かなり緊密な相互関係にあるとする。そのことをベルグソンは、「意識は生命と範囲を共有している」と表現している。つまり意識と生命とは同じ領域を共有しているということだ。これは言い換えれば、すべての生命には意識が対応している、ということになる。こうした言い方は、我々人間のような高等な生命体については難なく理解できるが、生命には膨大な種類の生きものに宿っている。そうした生きもの、たとえば原生動物や植物にも意識が対応している、あるいは意識があるといわれると、ちょっと首をかしげたくなるのではないか。

そこで意識とは何か、が問題になる。これを問題とする段になると、ベルグソンの思考は、人間の意識をモデルにして進む。おそらくベルグソンは、人間においても植物においても、意識の働きは異なるものではないと考えているのであろう。だから人間の意識の特性を理解できれば、他の生命体の意識についても理解できると考えているのであろう。

ベルグソンによる意識の定義は次のようなものである。意識はまず記憶作用であり、そうしたものとして過去を含んでいる。意識はまた未来を予測することでもある。そうした過去から未来へと至る意識の働きをベルグソンは次のように説明する。意識とは「持続の何らかの厚みでありまして、それはわれわれの直接の過去と、さしせまった未来という二つの部分から構成されています。われわれはこの過去に寄りかかり、この未来へと身を傾けているのです。このように過去によりかかり、未来に身を傾けることが、意識的存在の特徴です」(宇波彰訳、以下同じ)

意識についてのベルグソンのこうした主張は、意識のめざすものが行動にあるとする考えに基づいている。意識は何らかの事態に直面すると、それに行動を以て対応する。その場合に、行動は未来を予測するわけであるが、その予測は過去の体験をもとにたてられる。過去の体験は記憶というかたちで蓄えられている。意識が含んでいる記憶は、意識の不可分の一部分であり、普段は無意識の状態であるが、行動の選択を迫られると、意識の表面に浮かび出て来るのである。

ベルグソンの精神とか意識についての考えは、脳と一定の関係は認めながらも、脳の働きとはかならずしも厳密には対応しないというものである。意識には独立した存在が帰せられると主張するわけで、その限りで観念論といえるが、その観念論の議論については、この小論は立ち入っていない。

人間の意識をモデルにして解明された意識のあり方は、すべての生命に共通する、とベルグソンは主張する。意識が生命の本質だというわけである。そうしたわけだから、この意識は生命の原理としてのエランヴィタールの別名ではないかと思わされる。エランヴィタールなら、植物を含めたすべての生命の生成原理だといっても違和感はない。だが意識といわれると、かなりな違和感がある。われわれはふつう、植物に意識があるなどとは考えないからだ。

ともあれ、意識にせよエランヴィタールにせよ、それは生命を進化させる原動力である。その進化の結果、もっとも高い境地に達したのが、人間と膜翅類の昆虫だという。その部分の議論については、「創造的進化」に詳しい。

なお、この論文集は「創造的進化」より後に刊行されているので、「創造的進化」以前のさまざまな著作で展開されている議論と重なり合うものが多い。持続とか、精神と物質の二元論とか、生命の捉え方などである。そうしたベルグソン特有の概念が、わかりやすく説明されている。その点では、ベルグソン哲学のよき入門書といってよい。


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