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ベルグソンの心身二元論


ベルグソンはデカルト主義を20世紀に再興した哲学者である。ここでデカルト主義と言っているのは心身二元論のことだ。デカルトは、物質としての身体と自我の意識としての精神をそれぞれ独立した実体だとしたうえで、相互の関係について思索をめぐらしたわけだが、うまく説明できる原理が見出せなかった。デカルトの後継者たちも、うまい説明ができたとはいえない。唯一スピノザは、精神も物質も実体などではなく属性だと言って、この二つを対立させるのはナンセンスだと言ったのだったが、それは問題を棚上げしたに過ぎない。かれは精神と物質を唯一の実体としての神の属性だとすることで、心身二元論を解消したように見せかけたのだったが、説明するのに神を持ち出すのは、説明を放棄しているにひとしい。

だから、ベルグソンが20世になってわざわざ心身二元論を持ち出したのは、長らく棚上げされたままだった問題にまじめに取り組もうとする意欲の現われだといってよい。心身二元論に含意された心身関係の問題は、棚上げしてすませられることではないのだ。

ベルグソンが心身二元論にこだわるのは、近代の科学主義が精神の実在性とそれの身体からの独立性を軽視していると思うからだ。近代の心理学や、その影響を受けた哲学は、精神を脳の活動の産物のように取り扱っている。脳はあくまでも物質であるから、その活動の産物とするのは、精神を物質に還元してしまうことだ。だが、精神は物質に還元できるものではない、というのがベルグソンの基本的な考えだ。精神は物質としての身体とは何らかの関係にはあるが、身体に閉じ込められているものではない。精神は、空間的にも時間的にも身体を超越している。だから、身体が消滅したからといって、精神も消滅するとはいえない。精神は身体の死後も残り続ける可能性が高い、そうベルグソンは考えるのである。

そこからベルグソンの心霊研究への親和的態度とか、テレパシーへの共感とかが生まれるのだが、それはさておいて、精神と身体との関係についてのベルグソンの考えを見てみよう。この研究課題についてベルグソンは、すでに学位論文「時間と自由(意識の直接与件)」の中で詳しく展開しているので、詳細はそれを読んでほしいが、「精神のエネルギー」所収の小論「魂と身体」のなかでも、一応復習的な意味合いで簡単な言及がある。

精神と身体との関係がもっともわかりやすく現われるのは、意識と脳との関係だ。意識のなかで重要なのは記憶だが、機械論的な立場の学説は、記憶が脳に保存されていると考える。しかしこれはありえないことだとベルグソンは言う。機械論者は記憶の内容が脳にそのまま保存されるのは、音がレコード盤に記録されるのと同じだとするのだが、それはありえない。記憶の内容はきわめて微細で、かつ一つ一つが異なっている。ところが我々が何かについて思い出すときは、その記憶内容はだいたい定型化されている。同じような対象については、つねに同じような記憶内容がよみがえる。このことは、記憶内容がすでに精神によって加工されているためで、それは精神の脳の活動からの相対的な独立性を物語っている。

このことを理由にしてベルグソンは、精神つまり意識と脳とは厳密に対応しているわけではないと結論付ける。かれは、「思考は、少なくともその大部分は、脳とは無関係です」と言うのだ。さらに、「正確に言うと脳は思考・感情・意識の器官ではありません。そうではなくて、脳は意識・感情・思考が生活に向けられているようにし、その結果として、効果的な行動ができるようにしているのです。お望みならば、脳は生への注意の器官であると言って置きましょう」と言うのである。

つまり脳は、われわれをある特定の行動に向って注意を向けることはするが、その先は意識が勝手に活動する。その活動には脳は基本的にはかかわらない。意識の活動自体は、脳とは無関係なのだ。

意識と脳との関連を説明する材料として、失語症の症状がよく持ち出される。機械論者は、失語症を脳の欠損とか障害と結び付けるが、それも間違っているとベルグソンは言う。機械論者は、脳の一部の障害によって記憶が影響を受け、その結果言葉を思い出せなくなると言うのだが、ベルグソンは脳の欠損は記憶とは関係ないと言う。なぜなら脳は、レコードが音を記録しているようには、記憶を保存しているわけではなく、したがって脳の一部が欠損したからといって、記憶が欠損されるわけではないからだ。

記憶が損なわれるのは、別のメカニズムによる。それについてベルグソンは興味深い例をあげる。進行性の失語症においては、まず最初に固有名詞が、次に普通名詞が、その次に形容詞が、最後に動詞が消える。その理由は、「固有名詞は普通名詞よりも、普通名詞は形容詞よりも、形容詞は動詞よりも想起するのが困難だからです・・・なぜ動詞は最もたやすく想起できるのでしょうか。それは動詞が動作を表現し、動作は身ぶりで表現できるからにすぎません。動詞は直接身ぶりで表現できますが、形容詞はそれが含んでいる動詞の媒介によってのみ身ぶりで表現できます。また名詞はその属性を表現する形容詞と、形容詞に含まれる動詞という二重の媒介によって、固有名詞は普通名詞・形容詞・動詞という三重の媒介によって、身ぶりで表現されます。したがって、われわれが動詞から固有名詞へと進むにつれて、われわれは身体によってただちに身ぶりで表現され、演じられうる動作から遠ざかります」。ここで身ぶりというのは、行動とほぼ同義である。言葉というものは、基本的には行動と結びついており、意識・精神はその行動をスムーズに行うためにあるというのがベルグソンの考えであるから、以上のような説が出てくるわけである。

行動は当然身体の動きを伴うものだから、その行動のための媒介者である意識が身体と結びつくのも当然のことだが、その結びつきは、行動のきっかけであることにとどまり、意識の活動そのものは身体とは無関係だというのがベルグソンの考えなのである。身体と無関係であれば、身体が滅び去っても意識が消滅するとは限らない。いや、意識は身体が滅びたあとでも残り続ける可能性が大きい、そうベルグソンは考えるわけである。そのへんは、仏教の唯識説に通じるところがある。唯識説は意識(アラヤシキ)の実在性を主張し、意識は身体が滅びても生き残り、別の身体のうちに復活すると考えた。

この小論の最後にベルグソンは、人類が提起できる最も重要な問題として、「どこからわれわれは来たのか、われわれはここで何をしているのか、われわれはどこへ行くのか」をあげている。これはゴーギャンの有名な絵のタイトルにもなっている言葉だが、その言葉への回答としてベルグソンは、われわれの意識は永遠不滅であって、その意識が次々と異なった身体に乗り移りながら変転していくのだと言うかもしれない。しれない、というのは、彼自身はそのように明示的には言っていないからである。だが暗示的にはそのように受け取れる。



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