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心霊研究へのベルグソンのかかわり


ベルグソンは国際的な心霊研究団体の会長を勤めたことがあるらしく、1913年にロンドンで行われた心霊研究協会での会長としての講演記録が、「生者の幻と心霊研究」と題して、「精神のエネルギー」に収録されている。

ベルグソンの議論のほとんどは、心霊現象に関する世間の偏見への批判にあてられている。世間では、精神を脳と深く結びつけて考えるので、脳とは別の精神独自の働きを認めない。ところが心霊現象というのは、そうした精神の独自性を前提としなければ成り立たない。自分(ベルグソン)は、脳と精神とを全く別のものと考えており、したがって精神の独自性を認めている。そういう立場から、もっぱら精神的な現象としての心霊現象についても、その実在性を理解することができるのだ、というのがベルグソンの議論の骨格である。

ベルグソンは、例によって科学的な思考を重視し、それは経験の上に成り立つと考えているので、心霊現象についても、抽象的に議論するのではなくて、あくまでも具体的な経験を踏まえなければならないと強調している。そのうえで、自分はまだ「心霊については何も見たことがなく、観察したこともないのです」と断っている。ということは、自分にはまだ、心霊現象について語る資格はないとベルグソンは思っているのか。

どうも、そうではないらしい。というのもかれは、精神が脳の働きから独立していることを理由に、精神の独自の実在を認め、そうした独自の実在としての精神が、それ独自の働きであるところの心霊現象を引き起こすのは十分ありうると考えるからだ。だから、いまのところ、その心霊現象を見たこともなく、観察したこともないが、いずれはそういう機会がやって来るものと確信している、というような心持でいるようなのである。

そういう確信は、他の学問分野での発展を見た上で強化されたとベルグソンは言う。たとえば、我々はつい最近まで電気の存在を知らず、それなしで不都合もなく暮らしてきたが、それと同じように、いまはテレパシーの存在を知らないだけかもしれない。別にそれでも不都合が生じないのは、つい最近までの電気についてと同じ事態である。やがてテレパシーの存在が明らかになれば、我々の生活は違ったものになるかもしれない。電気の発見が我々の生活を大きく変えたように。

では、もし心霊現象というものがありうるとしたら、それはどのようなメカニズムによるのだろうか。我々の科学は、明確な対象をもとに、数学的な操作に馴染むような現象を専ら取り扱うが、心霊現象はそれとは全く対極的なものである。それは不明確であって、数学的な操作にも馴染まない。というのも、科学的な対象は意識によって明証に認識されており、それは一定の因果関係を示すという点で数学的な操作に馴染むのに対して、心霊現象は、普段意識されていない、つまり無意識あるいは下意識に隠れていたものが、何らかのはずみで意識の表面に出て来たものと考えられる。そういう意味では夢と似ている。夢は、寝ている間に見るものだが、覚醒している間に見えるものがあっても不思議ではない。そういうものをわれわれは心霊現象と呼べるのではないか。

そういうわけでベルグソンは心霊現象を一種の白昼夢のようなものと考えているようである。だが白昼夢はあくまでも個人の精神にかかわるものだ。心霊現象は個人的なものにとどまらない。たとえばテレパシーは、複数の個人の間に生じる現象だ。テレパシーのような現象を説明するためには、魂のような実体を備えたものが、自由に空間や時間を往来できると考えなければならない。じっさいベルグソンはそのようなものとして心霊現象を捉えているようである。心霊現象とは、魂の自由な動きが、われわれの眼に実際に見えることなのである。

だからこそベルグソンは、魂は身体とは独立した存在として、身体が滅びた(死んだ)あとでも存在するはずだと考えるのであろう。こうした意味での魂(精神)の実在性は、精神分析学者のユングも信じていた。ユングは魂独自の実在性を前提として、魂相互の間のコミュニケーション(テレパシーに相当する)とか、世代をまたがる魂の相続といったアイデアを提起している。世代をまたがる魂の相続というのは、集団的な魂の存在をいうのである。ユングにとって魂とは、個人の範囲に閉じ込められているわけではなく、集団の成員全体によって共有されていると考えられているのである。

フロイトがユングと決別した理由は、ユングが集団的な魂というものを持ち出し、それの実在性を強く主張したためだ。フロイトの精神分析理論はあくまでも個人の精神活動にかかわるもので、それを人間集団に拡大するのは、あまりにもやりすぎだと考えたのであった。かれら二人の関係にベルグソンは言及していないが、おそらくユングのほうに親近感を抱いただろうと思う。フロイトもユングも、ベルグソンとはほぼ同時代人で、しかも同じようなテーマを研究していたのである。この三人のうちでは、フロイトがもっとも実証的であり、ユングが最も空想的であって、ベルグソンはその中間に位置すると考えられる。

なお、講演のタイトルにある「生者の幻」とは、生きているものの目に見える幻覚というような意味だが、その言葉でベルグソンは心霊現象を意味しているのである。ベルグソンは、とりあえず心霊現象をそのようなものとしたのは、心霊現象についての研究がまだ進んでいないために、それが我々の目には幻覚としてみえるが、研究が進んで、その実在性が認識されるようになれば、正当な認識対象となるであろうと考えていたようである。「そうすれば」とベルグソンは言う、「精神の科学はわれわれの希望のすべてを上回るような結果を与えることができるでしょう」



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