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誤った再認:ベルグソンを読む


ベルグソンが言う「誤った再認」とは、「或る光景を見ていたり、対話をしているとき」、「いま見ているものはかつて見たことがある、いま聞いていることはかつて聞いたことがある、いま言っていることはかつて言ったことがある」(宇波彰訳、以下同じ)という確信を意味する。その点では、心理学でいう「デジャヴュ」とよく似ている。しかし、デジャヴュが一時的で例外的な体験といえるのに対して、「誤った再認」には恒常的な体験も含まれる。その例としてベルグソンは、三年もかけて、自分のそれまでの生を体験しなおした人をあげている。

誤った再認が生じるメカニズムは、基本的には夢と同じであるという。夢が寝ているときに見るものなのに対して、誤った再認は目覚めているときに体験するという違いはあるが、どちらも現実の感覚に対応する形で過去の記憶内容が結びつくことで生じる。夢の場合には、寝ている間の身体的あるいは物理的な感覚・印象がきっかけになって、過去の記憶内容が呼び起こされる。誤った再認も、現実の知覚がきっかけになって、過去の記憶内容がよみがえり、それが現実の知覚と深く結びつくので、われわれはあたかもその記憶内容そのものを体験しているような気になる。夢と違うのは、誤った再認が目覚めているあいだに起こることである。

夢とか誤った再認は、精神が弛緩することによって生じるとベルグソンは言う。目覚めているときの意識は通常は緊張しており、自分の行動にとって有意義な知覚しか受容しないが、寝ているときとか極度にリラックスしているときには、意識が弛緩するので、無意識のうちに保存されていた記憶内容が突然よみがえって、それが知覚と結びつくのである。そうした記憶内容は、通常はどうでもよいものとして意識の表面に上ってくることはないのだが、意識が弛緩すると表面に上ってきて、現実の感覚・印象と結びつくのである。それが夢や誤った再認となるわけである。

誤った再認には、夢と同じく一時的な場合もあれば、かなり長期にわたるものもある。そういう規模の大きな誤った再認は、体験する人に強力な影響を及ぼすことがあるという。ベルグソンはそれを、「人格全体を揺り動かすことができる」と言っている。われわれが誤った再認を体験するのは、せいぜいデジャヴュに類したもので、人格全体を揺すぶられるような体験にはならない。もしそういう体験があるとすれば、それは精神異常に類するのではないか。もっともベルグソン自身は、普通の人でもそういう体験をする場合があるようにほのめかしているのだが。

ともあれ、誤った再認の起源は、精神の調子の下落のなかに求められる。「心理生活の一般的な調子の低下のなかにこそ、誤った再認の第一の原因を求めなくてはならない」。誤った再認は、「心理的緊張の低下とイマージュの二重化とに同時によるものである」。イマージュの二重化とは、現実の感覚にそのまま対応するようなイマージュと、無意識から浮かび上がってきた過去の記憶内容からなるイマージュとの二重化をさすようである。要するに、意識が弛緩しているときには、現実の感覚に対して、それとは直接関係のない過去の記憶内容のイマージュが結びつくということだ。

ところでベルグソンは、「説明が必要なのは、夢よりも目覚めている状態のほうである」と、意味深長なことを言っている。われわれは通常、目覚めているときを基準にして意識の状態について考えるので、目覚めている意識が正常であり、夢はその反対なのだから、その原因なり理由を説明すべきなのは、夢の方だと考える。じっさいフロイトは、そういう考えに立って、夢の独自な性格について説明したわけである。ところがベルグソンは、それとは正反対の態度をとっているのである。

それはやはり、人間の意識が、ふつう考えられているように単純なものではなく、かなり複雑だということを主張したいからであろう。意識はつねに緊張していなければならない。緊張がゆるむと誤った再認をしたり、白昼夢を見たりする。白昼夢というのは、極端に弛緩した意識の状態であることにおいては、夢と全く変らないのである。

このように緊張した状態を前提とした現象と、そうでない現象とを比較した場合、より複雑なのは緊張した状態のほうだとベルグソンは考えるのであろう。だから単純な現象である夢よりも、複雑な現象である目覚めているときの意識のほうが、より詳しく説明されるべきだということになる。それはそれでひとつの見識というべきかもしれない。

誤った再認はまた、人間の精神の自由にも関係があるとベルグソンは考えているようだ。自由というのは、いろいろな定義があるが、ベルグソンはそれを、意識の自由な流れというふうに捉える。我々の精神は、現実に深く捕らわれているから、通常は、現実の知覚とか印象に対してかなり画一的な反応をするようにできている。ところが、意識が弛緩すると、そうした画一的な反応にとらわれないで、いわば無手勝流の反応を示すようになる。夢とか誤った再認がそれである。ベルグソンはおそらく、夢を見たり誤った再認を体験するのは人間だけだと考えていたはずだ。動物は本能的な反応しかできない。本能的な反応は機械的なもので、対象に深くとらわれている。人間だけが、現実とはかならずしも対応しない記憶内容をその現実に結びつけることができる。これはある意味、究極的な自由ではなかろうか。

もっとも、誤った再認に代表されるような、現実の知覚と記憶内容との結びつきの逸脱は、度を越すと厄介な事態に陥りかねない。場合によっては離人症のような精神障害に陥る恐れもある。だから誤った再認は適度にとどめておくのがベターだろう。そういう再認なら、「生への欠如が最も害のないかたちで」あらわれる。

デジャヴュに話を限定すれば、フロイトはそれを、夢の再現だとした。忘れられていた夢の内容が、何かのきっかけで表面化したものがデジャヴュだというのである。このフロイトの説と比較すると、ベルグソンの説のほうが応用範囲が広く、かつ説得的に思える。記憶内容というものを設定し、それを夢と誤った再認とに共通する原因にしたわけだから、説明原理としてはすっきりしているわけである。



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