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脳と思考についてのベルグソンの議論


脳と思考についてのベルグソンの議論(「精神のエネルギー」所収「脳と思考―哲学の錯誤」)は、ベルグソン一流の物質と精神の二元論の一バリエーション、そのもっとも重要なバリエーションである。脳と思考の関係については、この二つのものが平行関係にあるとする考えが支配的である現状を指摘したうえで、ベルグソンはその錯誤を指摘する。こうした考えはデカルトの哲学からまっすぐに出てきたものだが、それはデカルトが、物質と精神を全く異なった二つの実体だとしたにかかわらず、しかもその間に一定の関係があると認めたことに根ざしている。二つの実体の間に特別な関係を認めなければ、精神と身体との相互関係とか、脳と思考の平行関係などという問題が提起されることはないというのがベルグソンの基本的な考えなのである。

それゆえベルグソンは、脳と思考の平行関係についての、支配的な議論を反駁し、その錯誤を指摘するのだが、だからといって、脳と思考についての正しいと思われる説を積極的に提示するつもりはないと言っている。とりあえずこの平行関係には根拠がないことを指摘したいと言うのである。おそらくベルグソンとしては、脳と思考とはまったく別の働きなのだから、それらの間に一定の対応関係が見られるように思えても、全く違ったものの間に関係をつけようとするのは誤った態度なのだと思えるのだろう。

脳と思考の平行関係についてのベルグソンの反駁は、観念論と実在論のそれぞれの議論に対して向けられる。これら二つの立場が、現代の形而上学を代表しているのであるし、脳と思考についての、科学的な議論を含めた説明はすべてこの形而上学を根拠にしていると、考えるからだ。

細かい議論に入る前に、議論の前提として、観念論と実在論とについて、それぞれ厳密に定義しておく必要がある。ベルグソンによれば、観念論とは、世界の存在を人間の表象に解消する立場である。表象のうちに表出しているものが存在の全体であって、表象の外にはなにも存在しない、というのが観念論の基本的な主張である。それに対して実在論のほうは、表象にはその原因となるものが、表象の外部に存在している、と考える。表象が世界の根拠ではなく、世界が表象の根拠だと考えるわけである。

こう定義した上でベルグソンは、脳と思考の平行関係についての、観念論・実在論それぞれの主張を反駁する。脳と思考の平行関係というのは、「心的な状態と、それに対応する脳の状態とは等価である」とする考えのことである。ある一定の思考には必ず脳の一定の働きが対応しているし、また、脳に一定の変化が生じればそれはストレートに思考の変化に結びつく、というわけである。この考えによれば、脳の状態を微細に読み取れる顕微鏡のようなものがあれば、われわれはその脳の持ち主が何を考えているかがわかる、ということになる。

観念論は、物質としての世界の存在を表象に解消するわけだから、脳もまた物質として、表象の一部に過ぎないということになる。ところがその脳の働きである表象に世界は解消されるというわけだから、これは部分である脳が、全体である世界を包含しているということになり、論理的にも矛盾した主張だといわねばならぬ。

一方実在論のほうは、表象の外部に存在を認めるのであるが、それは、「それ(表象)自体のすべてを全体のなかの他の部分(表象の外部)に負っている」ということを意味する。だが、そのように言いながらなお、そのもの(表象)は、「全体の他の部分(外部)が消滅しても存続しているものとして考え」られている。なぜそうなるのか。それは実在論がこっそりと観念論を取り入れているからだとベルグソンは言う。脳は実在の一部なのにかかわらず、その意味では物質の一部にかかわらず、その本質的なあり方は表象としてのあり方である。脳は表象としては、対象を映す働きだから、あくまでも形式的な器のようなものであって、対象がどんなものでもかまわない。だから、極端なはなし対象が消滅しても、その形式的な働き自体は存続している、というわけである。

これは奇妙な議論に聞こえる。だが、ベルグソンの議論は、とりあえず論争相手の議論に潜む難点を指摘するのが目的だから、このような否定的印象の議論が成り立つのだと思う。ベルグソン自身、「平行関係というものに内在する矛盾を示そうとしたにすぎません」と言っている。脳と思考に関するベルグソン独自の見方については、「自由と時間(意識の直接与件)」において詳しく考察されている。それによれば、精神と物質とは、デカルトの言うように、全く異なった実体であって、したがって、その相互の間にはいかなる平行関係もない。精神の働きは物質としての脳の働きとは無関係である。だから、精神としての魂は、物質としての肉体とは別の生を生きているのであり、肉体が亡んでも生き続けると考えることができる、とベルグソンは思っているようなのだ。

デカルトは、精神と物質とが全く異なった実体であることを、折角見つけたにかかわらず、その二つの実体の間に橋渡しをしようとした。日常の経験が、この二つの間に関係があるように思わせるからだ。だがデカルトはそうすることで、哲学を形而上学にしてしまった。形而上学というのは、科学的な根拠に乏しい思い込みのようなものの上に立脚している。その思い込みは、日常の経験に根ざしているわけで、その点では強固な地盤をもっているのであるが、われわれはそれに惑わされてはいけない。そうベルグソンは考えるのである。



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