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道徳と宗教の二源泉:ベルグソンを読む


「道徳と宗教の二源泉」はベルグソンの最後のマスターピースであり、ベルグソン哲学の集大成というべきものである。この著作の直接の目的は、道徳と宗教の源泉について明らかにすることにあるが、その前提として、ベルグソンのすべての思想要素が総動員される。それを具体的に言うと、ベルグソンの人間観及び世界観ということになるが、それらを基礎付けているのはベルグソン独特の存在論・認識論である。ベルグソンの存在論は、存在を直観に還元するものであって、その点では唯心論の一バリエーションと言ってもよい。もっともベルグソン自身はそうは思っておらず、自分の存在論は意識の経験によって基礎付けられているというような、控えめな主張をする。ともあれベルグソンは、意識の直接与件から出発し、その与件すなわち直観を哲学の出発点に据えるわけである。その上で、人間の認識の構造を明らかにしていく。ベルグソンの認識論は、カントの認識論を換骨奪胎したもので、カントのカテゴリーに相当するものを、人間の記憶内容に置き換える。人間は自分の記憶内容をもとに、それを対象と関連付けることで、概念的な認識を獲得する、というのがベルグソンの認識論の基本的な構造である。それを支えるものとして、人間の意識の構造についてのベルグソン独自の見方がある。人間の意識をベルグソンは、持続として捉えた。持続というのは、意識の連続性に着目した概念で、人間の意識は過去と現在とが一体として統合されたものだと考える。ともあれ、「道徳と宗教の二源泉」と題したこの書物は、ベルグソン独自の存在論・認識論をもとにして、道徳と宗教の源泉について明らかにしようとする試みなのである。

道徳と宗教、この二つをベルグソンはどのように捉えているか。どちらもとりあえずは人間と社会との関係の上に成立している。道徳は、社会によってその成員に課せられた責務という形をとる。一方宗教のほうは、人間に社会的な責務を課す点では道徳と同じであるが、その課し方が多少異なっている。道徳が外的な強制という形をとりやすいのに対して、宗教のほうは内的な強制、つまり個人が自分の内心から自分自身に課した強制という形をとるということがまず指摘されるが、それにとどまらない。宗教は、人間がその知性を用いて社会から逸脱する動きをするような傾向に、たがをはめることを主な目的としている。言い換えれば、道徳がストレートに社会的な制約・責務を課すのに対して、宗教は人間の内心に働きかけ、自発的な服従を求めるという点に、両者の基本的な相違があると見るわけである。

次に、ベルグソンが「道徳と宗教の二源泉」と言う場合の、その源泉とは何か。単純化して言うと、「社会的圧力」と「愛の飛躍」ということになる。社会的圧力については多言を要しないだろう。道徳も宗教もそうした社会的圧力に最初の起源を持っている。その場合の社会というのは、ベルグソンが「閉じた社会」と言うもので、せいぜい個人が属している最小の単位社会、広くとっても国家限り、民族限りのものである。そうした狭い範囲の社会が存続できるように、道徳とか宗教が発明された、というのがベルグソンの基本的な考えである。人間といえども動物の一種であり、動物は基本的に本能で動くものだ。その本能は、ほかの動物の場合にはストレートな行動原理として働くが、人間の場合には、知性が介入することによって、間接的な形で働きかける。ベルグソンの基本的な人間観は、人間を本能と知性の統合として捉えるもので、その本能が道徳や宗教の最大の要因となると考えるわけである。

「愛の飛躍」のほうは、本能を逸脱して、飛躍しようとする衝動をさす。ベルグソンの進化論を踏まえた概念だ。ベルグソンの進化論の特徴は、エラン・ヴィタール(生の衝動)がすべての動物を一定の方向に向って進化させる原動力だと見るのだが、その原動力が人間においては「愛の飛躍」という形をとるわけである。「愛の飛躍」の最大の働きは、人間を本能のくびきから解放し、より高い境地に導くというものである。それは、ベルグソンの言葉を用いれば、「閉じた社会」から「開いた社会」への飛躍ということになる。「開いた社会」とは、国家とか民族といった枠組みを超えて、人類というような広くかつ普遍的な領域のことである。「閉じた社会」においては、とりあえず個人が属している共同体の利益が最優先するが、「開いた社会」においては、人間としての普遍的な原理が優先する。そのような原理は、普通の個人では獲得できない。それを獲得できるのは、優れた能力を持つ英雄的な個人である。そうした個人が、それまでの道徳的・宗教的な制約を越えて、より高い道徳的・宗教的原理を発明する。普通の人間は、そうした英雄によって感情を掻き立てられ、普遍的な原理を受け入れるようになる。人類の進化は、一部のエリートによって推進されるというのがベルグソンの基本的な考えである。

「愛の飛躍」は、道徳・宗教を通じて人類にとっての普遍的な原理を目指す。それは道徳にあっては、人類共通の普遍的道徳であり、宗教にあっては世界宗教と呼ばれるような、すべての人間を対象とした普遍的な宗教である。その普遍的な宗教のモデルをベルグソンはユダヤ=キリスト教に設定している。ユダヤ=キリスト教こそは、人類が到達した最も高次の普遍的宗教ということになる。それに比較すれば、仏教は特定の社会のための閉じた宗教という位置づけにされる。そのように、ユダヤ=キリスト教という形で、ユダヤ教をキリスト教に強く結びつけるところは、ベルグソンのコンプレックスの現われではないか。そうすることによってかれは、ユダヤ人に名誉キリスト教徒としての地位を獲得させてやりたかったのだろう。

一方、道徳については、閉じた社会の道徳の基本的内容は「相対的な正義」という概念を用いて語られる。「相対的な正義」とは、応報が吊り合っていることをさし、具体的には「はかり」のイメージで説明される。はかりは、二つのものが吊り合っていることを証明する。そのように、事柄の関係が吊り合っていることが、道徳のそもそもの内実であった。アリストテレスの道徳論・倫理学はそうした「はかり」のイメージの上に成り立っている。それに対して「開いた社会」の道徳は、「絶対的な正義」という言葉で語られる。カントの「定言命令」はその典型的な例であって、人間である限り無条件で、つまり絶対的に従わねばならない原理として受け止められる。

以上が、「道徳と宗教の二源泉」についての簡略な説明だが、ベルグソンはこうした概念セットについて語ることで何を言いたかったか。それについては、別途掘り下げて検証してみたいと思う。



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