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静的宗教と動的宗教:ベルグソンの進歩史観


ベルグソンの宗教論の特徴は、宗教を静的宗教から動的宗教への発展と捉えることである。静的宗教と動的宗教はそれぞれ閉じた社会と開いた社会に対応している。閉じた社会というと、原始的な社会をイメージし、静的宗教はそうした原始的な社会に成立する宗教と思われがちだが、ベルグソンは原始的な社会を特別視はしない。原始的な社会と現代人の社会とは基本的に異なったものではないと考える。原始社会と現代社会を断絶させて考える見方は、獲得形質の遺伝を根拠にしているが、獲得形質が遺伝することはない。だから、いわゆる原始人も現代の文明人も遺伝子は同じである。それであるなら、静的宗教が持つ意義も、原始人と現代人との間で異なるわけはない、と考えるわけである。

ベルグソンの宗教論は、人類はなぜ宗教を生み出したかということから始まり、その宗教が静的宗教であると規定した上で、その静的宗教がどのようにして動的宗教へと発展したか、その道筋を明らかにする。その道筋の特徴を簡単に言えば、閉じた社会としての共同体の宗教から、全人類を巻き込んだ形の(開いた社会の)普遍的宗教への発展ということになる。ベルグソンがその普遍的宗教としてイメージしているのは、ユダヤ=キリスト教である。ベルグソンはキリスト教こそが、人間を閉じた社会の構成員としてではなく、人種や民族の枠を超越した全人類の一員として位置づけたうえで、全人類を平等に結びつける絆として人類愛のようなものを提起したと考えるのである。この人類愛の思想を最初に体系化して示したのはユダヤ教だった。それをキリスト教が受け継いで世界宗教に発展させた、というのがベルグソンの提出した構図である。

まず、人類はなぜ宗教を生み出したか、という問題。その宗教はベルグソンによれば静的宗教であるから、静的宗教の発生の原因についての問いということになろう。

ベルグソンは、宗教は人間に特有のものだと言う。他の動物は宗教を持たない。人間だけが宗教を持っている。それは、人間が本能と知性の統合であるからだ。人間に知性が備わったことが、宗教が生まれた原因である。他の動物は、本能に従って生きており、人間の知性に相当するものは持ち合わせていない。本能だけに従って生きているものには、なにも考える必要はない。動物にとって、生きるとは行動することであり、その行動は環境に直接的に反応するという形で行われるので、そこに知性の介在する余地はない。知性というのは、対象の認知と、それへの反応としての行動との間に時間的隔たりが介在することから生まれる。その時間的な隔たりが、人間に考える余地を与えるわけである。動物にはそのような余地は介在しない。したがって知性の働く余地がない。知性の働かないところには宗教も生まれない、というのがベルグソンの基本的な考えである。

では、この知性がどのようにして宗教の発生につながるのだろうか。ベルグソンは言う、「宗教は知性の解体力に対する自然の防御的反応である」(平山高次訳、以下同じ)と。知性の解体力というのは、人間が本能の制約を超えて自由に振る舞うことによる破壊的な影響力のことをいう。人間の本能は自然のあり方に沿っており、その自然は社会を維持することを目的とする。自然は生きものを、基本的には孤立して生きるのではなく、社会において生きるように作った。人間も例外ではない。人間は本来社会的な生きものなのである。ところがそこに知性が介在すると、人間は社会の制約を無視して、遠くへと歩み出す。そのことが社会にとっての脅威になる。その脅威を無化するために自然は人間に宗教を与えた、とベルグソンは言うのである。だから宗教、この場合には静的宗教は、人間の社会的な生きものとしての本能に根ざしているということになる。

静的宗教は、ほぼ例外なく、死後の生命という観念を含んでいる。これもまた、社会の維持・存続を目的とした観念である。社会を構成する個人の永続性が信じられないとしたら、この社会の権威は揺らいでしまう。社会の永続性を保証するためには、その構成員の永存が前提となる。このような要請が、すくなくとも魂の不滅というような形で、人間の死後の生命というような観念を生んだというわけである。

一旦静的宗教が発生すると、それは様々なバリエーションを生む。一口に宗教と言っても、アニミズム、シャーマニズム、トーテミズムといったさまざまな信仰体系に分かれるし、同じ信仰体系の内部でも、さまざまに異なった神話が生まれる。それは、人間の持つ創話機能にもとづくというのがベルグソンの見立てである。創話機能というのは、人間の想像力に根ざしたものだが、その想像力には限度がないから、ほぼ無限に異なったバリエーションの神話を生み出すと言うのである。しかし、バリエーションは様々でも、目的は同じである。それは閉じた社会としての共同体の維持・存続をはかるということである。

このように、宗教のそもそもの始まりの形である静的宗教は、閉じた社会としての共同体を成立基盤としていた。それに対して動的宗教は、開いた社会としての全人類を包括する。静的宗教から動的宗教への発展は、連続的で自然なものではなく、断続した突然の出来事である。なぜなら、人間には共同体を超えて自分を帰属させうるようなものは存在しないからだ。人間は自分が属する共同体(家族や地域社会)への帰属心は自然に感じるように出来ているが、全人類というような抽象的なものには帰属心を感じることができないように出来ている。「家族・祖国・人類は大きさが順治に大きいサークルであるように見えるので、人間は家族や祖国を愛するのと同じように自然と人類を愛するはずである」と思われがちだが、「実際は家族的団結と社会的団結が自然によって望まれた唯一の団結であり、本能に対応するのはこうした団結だけであって、社会的本能は、幾多の社会を結合させて実際に人類を構成させるというよりも、寧ろそれら社会を相互に争闘せしむるであろう」

であるから、静的宗教から動的宗教へと発展するためには飛躍が必要である。その飛躍は人類愛というようなものによって促され、またその活動は神秘主義という形をとる。神秘主義というのは、合理的には語りえないことを語るということに根ざしている。人類愛というような極度に抽象的な考えは、合理的には説明できないものであり、したがって神秘主義に傾かざるを得ない、というのがベルグソンの考えである。神秘主義と動的宗教との関連については、別途稿を起して語ることとしたい。


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