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魔術と神秘主義:ベルグソンの思想


魔術と神秘主義は、一見して同じように見えるが、厳密には違うとベルグソンは言う。両者とも宗教と深いかかわりがあることは共通しているが、宗教に発展段階の相違があるのに対応して、魔術と神秘主義との間にも、人類の宗教意識の変化に応じた相違がある。単純化して言うと、魔術が静的宗教に対応しているのに対して、神秘主義のほうは動的宗教に対応する。もう少し詳しく言うと、魔術は静的宗教と同時に生まれたのに対して、神秘主義は動的宗教が生まれるための準備役を務めたということになる。

まず、魔術について。これがなぜ、静的宗教と同時に生まれたのか。静的宗教の本質は知性による人間の本能からの逸脱から、自然が揺り戻すための作用、すなわち知性に対する自然の防御的反作用ということであった。魔術もまた、知性に対する自然の防御的反作用としての本質を、宗教と共有しているとベルグソンは言うのである。知性は対象の科学的な認識を目指す。これは環境に対して合理的に反応して行動するために必要なことである。だがそのことによって失われるものがある。人間の中の本能的な部分である。その本能的な部分は人間の社会性と深く結びついているので、それが損なわれると、人間は人間らしさを失うことにつながる。なぜなら、ベルグソンによれば人間は本来社会的な生きものなのであり、社会性の毀損は人間性の毀損を意味するからである。

以上から言えるのは、静的宗教としての宗教と魔術は起源を同じくしているということである。「魔術と宗教は共通の起源から分出するものであって、宗教の起源を魔術だとするのは問題たりえない~すなわち、この両者は時を同じくするものなのである。しかも、この両者が互いに他につき纏い続け、宗教の中にはいくらか魔術が残存し、とりわけ魔術の中には宗教が残存する、ということがわかる」(平山高次訳、以下同じ)

魔術と宗教の基本的な相違は、宗教が精霊信仰やその洗練された形としての神々への信仰を内実とするのに対して、魔術のほうは、超自然的な存在に働きかけることを本質としている。宗教は受動的に(神々の)恩恵を求めるのに対して、魔術は積極的に恩恵を得ようとするわけである。

その働きかけ方には、一定の法則性のようなものがあるとベルグソンは言う。それを単純化して言うと、対象の類似性をもとに、あるものを通じて他のあるものへ働きかけることである。こうした法則性をベルグソンは、「類似のものは類似のものに働きかける」とか「部分は全体に相当する」とかいう言葉を用いて説明している。かくして「この原則は、遠い対象に対してそれと最も表面的な類似性を持っているような現前の事物を媒介として働きかけうる、ということを信ぜしめるであろう」というのである。

こうした思考のタイプを、小生は隠喩的思考といいたい。人間の思考には、因果的な思考と隠喩的な思考があるというのは、小生の日頃からの意見であって、それにしたがえば、魔術は隠喩的な思考の現われということになろう。隠喩的な思考とは、因果関係ではなく、表面的な類似性にもとづいて物事相互の関係を判断するものだ。その類似性は比喩という形をとるから、それにもとづく思考様式を隠喩的思考というわけである。隠喩は、直喩とならんで、比喩のもっとも基本的な形である。

人間(原始人)が対象に働きかけるときのパワーを、マナと文化人類学では呼ぶ。このマナが魔術の起源だとする見方があるが、それは適切ではない。マナと魔術の関係は、原因と結果の関係ではなく、同じ事象を違った言葉で語っているにすぎない、とベルグソンは言う。

以上のことから、魔術は静的宗教としての宗教と深く結びついており、両者とも同じ起源から生じたということを、(ベルグソンとともに)確認しておこう。

次に、神秘主義について。これは、静的宗教から動的宗教への、宗教の発展にとって不可欠な要因だったとベルグソンは言う。動的宗教は神秘主義によって準備されたと言うのである。動的宗教とは、ベルグソンによれば、全人類のための普遍的な宗教であり、具体的にはユダヤ=キリスト教に現われた一神教の形をとる。人間にとって、静的宗教は、ある意味必然的なものであった。静的宗教の本質は、人間性の核心である社会性を保証することだからである。それに対して動的宗教には、そうした必然性はない。人間は本来、狭い範囲の共同体を生存の基盤としており、全人類規模での問題には無関心になるように出来ている。そこを打破して、人間の目を全人類の問題に向かせるには特別の仕掛けが必要になる。それが神秘主義だとベルグソンは言うのである。

神秘主義とは、不合理なものをさもあるべきように思わせる働きを内実としている。動的宗教が取り上げる全人類的な問題とか、信仰の対象としての抽象的な神のイメージとかは、合理的な言葉では語りえない。ましてや、そうした考えを人に抱かせることは無理である。その無理筋のことを実現するものが神秘主義なのである。

ベルグソンが動的宗教のモデルとして考えているのは、ユダヤ=キリスト教である。とくにユダヤ教が、動的宗教のはじまりを画している。ユダヤ教が神秘主義を抱え込んでいることは周知のことだ。ベルグソンは一歩進んで、ユダヤ教は神秘主義から生まれたとまで言っている。ユダヤ教の神は、ヤーヴェという一神教の神であるが、そのヤーヴェのイメージは、普通の人間の想像力を超えている。その超越的な神を具体的にイメージするには神秘主義が不可欠である。かくして動的宗教は必然的に神秘主義を要請する、というのがベルグソンの基本的な考えである。

ベルグソンの哲学の出発点は、意識の直接与件としての直観の考察から始まったわけだが、その直観の舞台となる意識とは、精神あるいは心と言いかえることができる。その精神あるいは心は、単に表面的な意識のみならず、無意識の部分も含んだ重層的なものであり、しかもそれ自体が実在性を持ったものとしてイメージされていた。そうした唯心論的な思考は、ユダヤ教の母体となったユダヤ神秘主義に見られる一方、イスラーム神秘主義とか仏教の唯識思想などにも見られる。それを井筒俊彦は東洋的な思想として、西洋的(キリスト教的)思想と対比したわけだが、そうした東洋的な思想の流れがベルグソンの中にも見ることができる、というのが小生の見立てである。



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