知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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斎藤美奈子「誤読日記」


たとえ誤読なりとも、これだけの量の、しかも大した内容を持たない本を読み抜くには、相当な忍耐がいることだろう、と筆者などは思ってしまう。「誤読日記」と題した斎藤美奈子女史の書評集が取り上げているのは、こう言っては何だが、紙屑に近いようなろくでもない本ばかりだと言ってよい(なかにはいくつかまともなものもあるが)。こういう本は、古本屋でキロいくらで売っているような代物で、筆者などには、金を払うのは無論、目を通すのも御免だ。それを女史は、ひととおり目を通したばかりか、書評までしている。見上げた態度と言わねばなるまい。

そこで、その書評のスタイルだが、多くの場合罵倒に近いものである。それは、対象としている本のクォリティからしてある程度避けられないとも言えるが、女史の場合、同じ罵倒でも、すこぶるソフィスティケイトされた罵倒になっている。それゆえ、罵倒された当人も、これが罵倒だとは受けとらないと思われる体のものである。無論、誰が読んでも罵倒以外には受け取れないものもあるが、それは対象となった本の程度があまりにも低い場合だと考えてよいだろう。

ここでは、そんな罵倒のいくつかの例を紹介しよう。まず、谷沢栄一・渡部昇一の「広辞苑の嘘」。これは「広辞苑」を俎上にのせて、難癖をつけた対談本だが、その難癖のつけ方が振るっている。たとえば、ユニークな歴史認識に基づく指摘(南京大虐殺は半日キャンペーンだなどなど)、独特の人物評価(安藤昌益は偽学者だ)、文学史の誤りの指摘(枕草子は随筆ではなく日記だなどなど)、そのほか、左翼・中国・韓国批判などなど、この二人の対談は、「いまや時代遅れになった右翼の宣伝カーみたいでなつかしい」と女史は言っているのだが、どうしてどうして右翼がいまだに元気なのは、ご案内のとおりである。

三浦朱門編著「『歴史・公民』教科書を検証する」は、文字通り-「歴史・公民」教科書を比較検討したものだが、その結果三浦は扶桑社の教科書がもっとも優れていると言っている。女史はその優れているとする理由を検討したうえで、編著者が「つくる会」より右寄りと見る。そして、この本を読めば、扶桑社の教科書がいかに変か、批判本を読むよりよくわかると言っている。編著者の三浦朱門は、先日在日外国人のアパルトヘイト政策を主張して顰蹙を買った曽野綾子の夫である。夫婦して(かんばしくない)話題を提供しているわけだ。

漫画家の小林よしのりにも罵倒を浴びせている。小林は言わずと知れた罵倒家であるから、それを罵倒する筆には力がこもっている。小林はことあるごとに、自分の本を読まないで自分を批判するなどと相手を罵倒するのだが、その小林本人が、自分を批判する相手の文章をまともに読んだことがない。要するに唯我独尊だ。そういう人間は「いっそ小林善法なぞに改名して新宗教を立ち上げたらどうか」と暖かい忠告の言葉を贈っている。なお、女史は小林を「よしりん」と愛称で呼んでいるが、「よしりん」には女の「よしりん」もいて、こちらも唯我独尊振りでは男の「よしりん」にヒケをとらない。

一方、本の著者をほめているものもある。たとえば「口語訳古事記」の著者三浦裕之。三浦はユニークな古事記研究家で、筆者もそのファンの一人だ。その三浦が「じゃ体」とでもいうべきユニークな言葉使いで古事記を現代語に訳している。それは語尾に「~じゃ」「~じゃった」「~じゃのう」をつけたもので、それが「あけてびっくり玉手箱だったのじゃ」というわけなのである。そんな三浦を女史は、「古代の古老が『じゃ』『じゃ』としゃべる口語が素敵」といってほめている。

長島茂雄の対談集「人生の知恵袋」も女史はほめている。長島といえば天真爛漫といった印象が強いが、この本を読むと、長島が気配りの人だったことがわかる。その気配りは過剰といってよいほどで、女史でさえ同情してしまうほどだと言う。そこで女史は、「過剰な気配りと重圧、これでは心身の負担も軽くなかっただろう」と言って同情している。その一方で、長島に過剰な気配りをさせてなんとも思わない某老人を、「にしてもナベツネっていやなやつ」と罵倒することを忘れない。その辺は女史の面目躍如といったところだ。

こんなわけで、この書評は大して意義のある知識を与えてくれるようなものではないが、時間をつぶすのには向いているかもしれない。寝転びながら読むにはおあつらえ向きだ。





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