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仲正昌樹「精神論ぬきの保守主義」


仲正昌樹は、政治思想を主な研究対象とする大学教授で、近代の政治思想を中心に古典的な著作をわかりやすく読みといていることで定評がある。筆者も、彼の著書をドイツ思想史など何冊か読んだが、それなりにこなれた説明が、なかなか読み応えがあると感じたものである。

この著作の題名から推測できるように、その思想的な立場は、いわゆる「保守主義」である。だがその保守主義にわざわざ「精神論ぬきの」という言葉を冠しているのには、それなりのわけがあると言う。

西洋思想の文脈での保守主義と言うものは、なにかしら守るべきものがあって、それが「破壊勢力」の脅威にさらされたときに、守るべきものを守る思想として成立するというのがふつうである。「『古くからあるもの』を破壊しそうな勢力が特に目立っている状況でなければ、『保守主義』という思想を"新たに"立ち上げる必要はない。余計な波風をたてれば、かえって『古くからあるもの』を傷つける恐れさえある。急激な進歩への不安が『保守主義を』台頭させるのである」(「はじめに」から)

だから、西洋における保守主義というのは、制度についての議論となるのがふつうである。ところが日本においては、保守主義というのはとかく精神論に傾きがちだ。それは、日本の場合、守るに値する制度というものがどういうものか、保守主義を標榜する勢力の間でも共通理解がなかったためだ。とりあえず天皇制ということになるのだろうが、日本における天皇制というのは、政治的な論争の焦点となることはほとんどないのが現状である。

こんなわけで、日本では西洋においてのように制度論的な保守主義の思想を展開するのはかなり困難であった。そこで、日本で保守主義を標榜する人たちは、精神論や文化論のかたちで保守思想を展開することになりがちだった。仲正が自分自身の保守主義的な立場を「精神論抜きの保守主義」というわけは、こういう事情による。仲正本人は、そのような保守主義はごめん蒙りたい、できれば精神論抜きで、保守思想を論じたいと言いたいようである。

仲正が保守主義を標榜するようになったのは、いわゆる左翼(特にマルクス主義)への嫌悪感からであるらしい。彼が若い時期に統一教会に属していたことは自ら認めているとおりだ。だが今では統一教会とのかかわりを断って、極端な反共から中庸の立場へ移行したということらしい。そのさいに、統一教会の反共思想に代るものとして保守主義を選んだということらしいが、日本の保守主義はどうも精神論的でスマートではない。そんなことから、できたら日本でも、精神論抜きで保守思想を論じたい、と思うようになったということのようである。

仲正がこの本の中で言及している保守主義者たちは、ヒューム、バーク、トクヴィル、バジョット、シュミットといった人々である。どの人物も、日本の保守主義者のように大上段から精神論をぶったりはしない。守るべきものとしての伝統的な制度をどのように守り、そうしつつも、いかに社会の変化に対応して漸進的な進歩を図っていくかということについて、地に足のついた議論を展開している。こうした地道な議論こそが、本来もっとも保守主義に必要なことなのだ、と仲正は言いたいようである。

仲正の基準からすれば、いまの日本の保守政党(自民党)は、保守主義の正道から外れていると言うことになろう。彼らは、戦後70年を経てすでに強固な制度となっている日本の現在の社会秩序を、守るべきものとは考えないで、破壊すべきものと考えている。こうした姿勢は、本来の保守主義がもっとも嫌うところであるはずだ。ところが自民党の諸君は、それが保守主義だと信じて疑わない。というのも、彼らの言う守るべきものとは、敗戦によって破壊された戦前の全体主義的体制のことであり、それを復活させることこそが日本的な保守主義の正道であると信じているからであろう。だがそれは、保守主義とはいえない。失われたものを復活させようというのであるから、復古反動主義というべきである。

もっともこの最後の部分は、仲正のテクストをもとに筆者が敷衍したところであって、仲正本人の思想とは必ずしも一致しない。




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