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仲正昌樹「<法と自由>講義」


「法と自由」といえば、法哲学とか政治哲学のもっとも核心的な問題領域である。思想史的に見れば、この問題についてのアプローチは、大きく二つに分けられる。一つはホッブズやルソーに代表される社会契約的なアプローチであり、もう一つはヒュームやバークに代表される慣習を重んじるアプローチである。仲正のこの本は、この二つのアプローチのうち、社会契約的なアプローチ、それもルソー、ベッカリーア、カントの系列に焦点をあてて、法と自由の本質について考えようとするものだ。

ホッブズの社会契約論が、社会契約成立後の人民の主体性にあまり考慮を払っていないのに対して、ルソー、ベッカリーア、カントの系列の社会契約論は、社会契約の成立から成立後の契約の運営(それは法と言う形を通じてなされる)まで含めて、人民の主体性を最大限考慮しようとする姿勢に特徴がある。

ホッブズの場合には、人民は社会契約を成立させる当事者ではあるが、いったん社会契約が成立して主権者(権力の執行者)が決まると、人民は主権者にすべての権力を委ねる。そのかわりに、自分たちの財産や生命を主権者から保証してもらうという構図をとっている。これに対して、ルソーらの社会契約論においては、人民は社会契約の成立後も、(究極的な)主権を留保し続ける。形式的には、法を制定するのは立法機関であるが、立法機関は人民の名においてそれを制定する。ということは、人民は実質的には立法権を失わないでいるという構成になっている。立法という点では、ホッブズの社会契約論が(人民にとって)他律的なのに対して、ルソーらのそれは自立的なのである。

ルソーらの社会契約論に特徴的な、人民の自主的な立法権について、仲正は次のように言っている。「私が私を縛ることがあるように、『私たち=人民』が『私たち=人民』自身を縛っているわけです。全体としての『人民』が、その特定の構成員ではなく、『人民』全体を対象として、働きかけているわけです。そうした『人民』の自己自身に対する関係が、『法』である、ということになります。『人民』は、みずからの『一般意思』の現れである『法』を介して、自らに規律を課しているわけです」

社会契約による権力の制定にせよ、人民が自己自身を律するために課す「法」というものにせよ、それは人民が主体的な意志に基づいて設計=構成すると言う点で、(この言葉を仲正は使っていないが)構成(=設計)主義的な態度ということができよう。これに対して、ヒュームに代表されるような、慣習を重んじ、法を慣習の定式化と考える立場がある。政治思想の中で保守思想に分類されるものは、多くこの立場をとっている。構成主義が、人民の主体的な判断による社会の人為的な構成を主張するのに対して、保守主義の立場は、慣習を重んじながら、漸進的な発展を図っていこうとする。

仲正本人は、ヒュームやバークに始まる保守的な政治思想に親近感を抱いているようである。「精神論抜きの保守主義」は、そんな彼のプロパガンダの書と言うことができよう。その仲正が、ルソーやカントの社会契約論にも関心を示し、その延長としてロールズの正議論を論じているところは、なかなか興味深いやり方だと思う。彼のいいところは、社会契約論を扱うときでも、保守主義の立場からバイアスのかかった見方をするのではなく、社会契約論の論旨にもとづいて公平に議論しているところである。彼の本が、一部に人気があるのは(この手の本はなかなか大衆的な人気をはくすことはない)、この公平さに理由があるのだと思う。

ルソー、ベッカリーア、カントの社会契約論的な議論を種にしてひととおり「法と自由」についての議論を展開した後、仲正は憲法についての基本的な考え方に言及する。この国では先日、憲法は権力を縛るためのものなのか、それとも国民を縛るものなのか、という議論が起きた。時の政権が、憲法改正を進める動きを見せる中でのことである。権力者たちは、憲法は国のかたちを定めるためのもので、そのなかでは当然、国として国民に求めることを記すのは当然だという。これに対して批判者たちは、憲法と言うのは、権力の乱用から国民を守るためにあるもので、その意味では権力を縛るものである。それが立憲主義の大原則だ、と批判した。

この論争について仲正は、いわゆる立憲主義は、英米の政治的な伝統の中から生まれてきたもので、どちらかというと保守主義的な思想に支えられたものである。それに対して社会契約論は、法と言うものは、人民が自分自身を縛るために制定するという考えに立っている。その立場に立てば、憲法が国民に義務を課すことは、おかしいことではない、と言っている。おかしいのは、日本の憲法学者が、一方では社会契約論をベースにしながら、それに英米の慣習法の実践から生まれた立憲主義を、無媒介に接続しようとすることだと、仲正は批判するわけなのである。仲正は言う、

「『憲法』をはじめとする『法』は『社会契約』に由来するという考え方は、日本の護憲派やリベラル派が前提としている『憲法は政府を縛るもの』という考え方と相容れないところがある・・・ただ、そういうことを指摘すると、憲法を国民の意思でもう一度選びなおそうという保守派の思想に有利になるので、リベラル派の人々はあまりそこに触れたくないのかもしれません」

この辺は、保守主義者としての仲正の、いわゆる左翼に対する牽制というべきかもしれない。




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