知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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鶴見俊輔「思い出袋」


先日、鶴見俊輔が九十三歳で亡くなったとき、哀悼のコメントを寄せたのが鶴見と同じような世代の人々ばかりだったのを見て、この人も今は忘れられつつある人だという印象を持った。かくいう筆者も、鶴見俊輔の読者だったことはなく、彼の一生がどんなものだったのか、ほとんど何も知らない。だが彼が、戦後日本の思想界に一定の役割を果たしたということくらいは知っているので、その死に、日本の戦後思想史のひとつの区切りを見るくらいのつもりはある。

そこで、いまさら鶴見に敬意を表するというわけではないが、せめて彼がどのような生き方をしたのか、それを多少でも知りたいと思って、自伝的な回想録「思い出袋」(岩波新書)を読んでみた。題名どおり、自分の一生を思い出という形で回想したものだ。八十歳から七年間にわたって、読書誌「図書」に寄稿した文章をまとめたものである。

これを読むと、鶴見の基本的な姿勢が反権威主義だったということがわかる。その姿勢は幼少時代に作られたもので、彼はそれを「自分の内部の不良少年」といい、それが一生を通じて枯死しないようにしていたと言っている。こうした姿勢は、1936年に起きた二つの事件、2.26事件と阿部定の男根切除事件への反応に面白い形で現れている。彼は、2.26事件を悪いこととして受け取る一方、安部定のしたことは悪いこととは思えなかったと言うのだ。2.26事件は、権力から弾圧を受けてつぶされたとはいえ、権力同士の衝突であったことには違いなく、したがって権力の暴力的な性格を露出させる出来事だった。少年鶴見はそこに、権力のおぞましさを感じて、嫌悪感を抱いたわけであろう。一方阿部定は、権力とは無縁なところで、人間としての自然な感情を追求している。そこが鶴見には、好ましく見えたということだろう。

鶴見が日本を脱出してアメリカの学校に入ったのは、この「自分の中の不良少年」がなさしめたことである。彼は、日本の学校の権威主義的な雰囲気の中では息苦しさしか感じなかったが、アメリカの学校では自由闊達に生きることができた。そのときの体験が、彼本来の無政府主義的傾向とあいまって、戦後の彼の思想を支えたのだと思われる。

この本の中で鶴見は、自分が次第にもうろくしていくことを嘆いている。そのもうろくのせいだろうか、同じ話題を繰り返し書いている。その一つに、アメリカから日本へ戻ってきたときのいきさつがある。日米開戦の少しあと、敵国性人間として戦争捕虜収容所にいた鶴見は、捕虜の交換船が出るが、乗るか乗らないかと聞かれ、乗ると答えた。そのときの気持ちを鶴見は、「この戦争で、日本が米国に負けることはわかっている。日本が正しいと思っているわけではない。しかし、負ける時には負ける側にいたいという気がした」と書いている。

しかし、これは愛国心などではない、と鶴見は言う。では何なのか、それには鶴見は答えない。その辺が、鶴見の面白いところだ。トーマス・マンなら、もっと明確に言語化しただろうところを、鶴見は曖昧にしている。こんなことを自覚しているのか、鶴見は丸山眞男の知識人の分類に言及した際に、急進、進歩、保守、反動と言う丸山の分類のうち、自分は反動に属すると言う。

鶴見が言う反動とは、少なくとも復古主義のことではないようだ。日本の復古主義はだいたい国家至上主義の形をとるが、国家至上主義ほど鶴見の嫌うものはない。鶴見の姿勢はその対極にある。彼自身自分を無政府主義者だと言っている。

鶴見は政治家の一家に生まれた。父親は代議士であり、母方の祖父はあの後藤新平である。鶴見は父親を馬鹿にしたような書き方をしているが、それは父親の漂わせている権威主義的な雰囲気への反発がそうさせるのだろう。祖父の後藤新平については、ほとんど何も語っていない。鶴見は母親を愛していなかったようなので、その母の父親たる祖父にも愛着を感じなかったのだろうか。或は、祖父後藤の中に権威主義的な残酷さを嗅ぎ取ったからか、この本からはよくはわからない。

この本は、日本の一人の知識人の生き方を通じて、彼が生きた時代の日本を、いろいろな角度から考えさせてくれる。読んで損のない本だといえる。




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