知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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柄谷行人「反復脅迫としての平和」


柄谷行人が「世界」の2015年9月号に寄せた「反復脅迫としての平和」という文章は、憲法9条がなぜいまも大多数の日本人によって支持されているのか、その理由をフロイトの理論に依拠しながら分析したものだ。それによれば、強迫神経症の患者が無意識の罪悪感にさいなまれているのとパラレルな形で、日本人は「無意識的罪悪感」に基づいて憲法9条にこだわり続けていると言うことになる。それは無意識のレベルでのことであるから、そう簡単には排除できない。安部晋三政権がいくらがんばっても、日本国民に憲法9条を捨てさせることはできない、なぜならそれは日本人を無意識のうちに呪縛している罪悪感に反するからだ、というわけなのである。

この辺の事情をもう少し詳しく説明するため、柄谷はフロイトの次のような文章を引用する。「人は通常、倫理的な要求が先にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心という形で表現され、欲動の断念を更に求めるのである」(1924年、「マゾヒズムの経済問題」から)

このフロイトの文章のうち、欲動を戦争への積極性、外部の力による強制を占領軍による憲法の押し付け、倫理性を護憲的態度と読み替えれば、そのまま戦後日本人の無意識的な呪縛とその結果である戦争の断念を説明できることになる、そう柄谷は類推するのである。

つまり柄谷は、憲法が自発的な意思によって出来たのではなく、外部からの押し付けによるものであったがゆえに、その後日本人の中に定着した。それも無意識的な脅迫神経症と言う形で、と言うのである。「それは、もし人々の『意識』あるいは自発的な意思によるのであれば成立しなかったであろうし、たとえ成立してもとうに廃棄されたでしょう」というわけである。

以上の推論が成り立つためには、いくつかの条件をクリアせねばなるまい。まず、個人の無意識と比定出来るような集団的な無意識と言うものがあるのか、という点である。これについては、柄谷はフロイトがそういうものを想定していたことを理由に存在すると仮定しているようだが、しかしそうでなくとも、膨大な数の個人の無意識が集団の成員によってたまたま共有されたということでも説明できると思う。

次に、アメリカによる憲法9条の押し付けは、当時の日本人にとって外傷ともいうべきものを心の中に残し、その外傷が作用して、その結果日本人は集団的な規模で強迫神経症になったとフロイト=柄谷は仮定しているが、ではなぜ日本人が押し付けられた憲法9条を、外傷を残すような形で受け入れたのか、ということはいまひとつ明らかでない。当時の日本人が、もう戦争はこりごりだと考えていたのだとすれば、憲法9条は歓迎すべきものでこそあれ、外傷につながるようなものではなかったはずだ。

これについては、自分ではできなかったことを占領軍が代ってしてくれた。そのこと自体は非常にありがたいことだが、しかし一人前の人間としては、どうも子どものようでみっともない。その、みっともないという感情が、日本人の中に心のやましさを引き起こし、それが精神的な外傷につながったと言えなくもない。

しかしもっとも肝心なことは、もしもフロイト=柄谷のいうような無意識が、このケースの場合にも作用していたとするならば、それは権力によってコントロールの対象になるのではないか、ということだ。というのも、無意識と言うものは、ロゴスを介在させない分、情動的な操作の対象となる。たとえば、強迫神経症の患者については、脅迫神経症の理由を明示して、それを理性的に克服させるというのは非常に難しいのに対して、患者の情動に直接働きかけて、それに別のはけ口を与えることで、みせかけの解決を図ることは出来る。それと同じで、日本人が無意識に憲法9条に固執しているのなら、その固執のエネルギーに別のはけ口を用意して、その固執を無力化することが出来る。ということは、憲法9条にかかわる日本人の固執は、権力によって操作できるということだ。

しかし、なかなかそうならないのは、やはり日本人の大多数が、憲法9条について自覚的に向かい合っているからだ、と考えるほうが自然であろう。日本人がそのように自覚するようになったのは、なにもアメリカに押し付けられたからではなく、戦争はもうこりごりだという実感が日本人のなかにあったからだろう。その実感に支えられて、日本人は戦争を忌避するようになり、その忌避の感情が憲法9条をこれまで支えてきた、ということではないのか。そうであれば、日本人の大多数からそうした実感が消え去って、戦争へのアレルギーがなくなっていけば、やがては9条改正に強く反対することはなくなるだろう。

柄谷は、9条の運命についてかなり楽観的な見方をしているが、それは甘すぎるというべきだろう。




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