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野崎昭弘「詭弁論理学」


数学者野崎昭弘の著作「詭弁論理学」(中公新書)は、1976年に刊行されて以来刊を重ね、今日でもなお多くの人に読まれているから、古典的な業績と言ってよい。書かれている内容は、そんなに高度なことではなく、誰にでもわかりやすいし、しかも誰にとっても切実な事柄と言えるので、今でも多くの人に繙かれる価値がある、ということだろう。著者の野崎がこの本を刊行した時に、詭弁が横行していたのかどうか、筆者にはそこまではわからぬが、詭弁が横行していなくとも、この種の本はいつの時代でも有効だと思うし、とりわけ政治家たちの詭弁がまかり通っている今日の日本のような社会では、この本の価値は余計に高まっていると言えるだろう。

野崎は詭弁という言葉を、狭義の詭弁と強弁とにわけて論じている。狭義の詭弁と強弁との違いは、詭弁が一応理屈の外観を呈しているのに対して、強弁のほうは理屈を超越したところにあるということらしい。「詭弁が詐欺や窃盗にあたるとすれば、強弁はさしずめ強盗になる」というわけだ。たしかに詐欺師にも一分の理屈はある。それに対して強盗は居直るだけだ。

そこで今の日本の政治家たちの話法をどう捉えたらよいか。野崎の分類によれば、どうやら強弁に該当するようだ。強弁と言うのは、相手の言い分を聞かず、自分の言い分を言い張り、それも黒を白といいつのる類のことをさすが、今の日本の政治家たちの言っていることは、まさにそれに該当する。

野崎によれば、強弁にも色々な変種があるが、今の政治家、とりわけ安倍晋三とその一味の言っていることは、小児型強弁に該当するというべきだろう。小児型強弁と言うのは、相手のいうことを耳に入れず、ひたすら自分の言いたいことを言いつのるという点に特徴があるが、これこそは強弁の最も典型的なパターンと言える。強弁を弄する主体には、理屈をわきまえぬ小児であるとか、あるいは論理を蔑視するナイーブな大人が多いようである。

小児型強弁を成り立たせている原因として、野崎が上げているのは以下の諸点である。「(一)自分の意見が間違っているかもしれないなどと、考えたことがない。(二)他人の気持がわからない。(三)他人への迷惑を考えない。(四)世間の常識など眼中にない。(五)自分が前にいったことさえ忘れてしまう」。これらの諸点が、期せずして安倍晋三の言動を要領よく解説しえていると受け取るのは筆者のみではあるまい。

これらのそのまた原因を探ってみると、更に次のような事柄に思い当たると野崎は言う。すなわち、「(A)自信が強すぎる。(B)好き嫌いの感情が強すぎる。(C)他人に対して、きわめて無神経である」。これらの諸点も、安倍晋三とその一味の言動を実によく解説したものだと受け取る事が出来よう。

詭弁や強弁は、局限された人間関係や、あるいは遊びのレベルにとどまっているかぎりは、ひとつの愛嬌として大目に見る事も出来よう。だが一国の権力者が、これを専ら自分の政治的な言動様式として振り回すに至っては、国民にとって大いなる不幸につながりかねない。

なお、この本は、詭弁の延長としての論理の遊びについても取り扱っているが、そうした遊びにはそれなりの知的能力が求められると思うので、安倍晋三のような人間に象徴される今の日本の大部分の政治家たちに、それを求めるのは無理筋かも知れない。




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