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鎌田茂雄「法華経を読む」


筆者は日常的にお経を読む習慣は持たないが、法華経は折りに触れて手にすることがある。初老にさしかかった頃には岩波文庫版の「法華経」全三巻を通読した。その時を含め、筆者の法華経の読み方は理知に傾いたものなので、法華経を、いわゆる教えの本として理解する姿勢はなかったと言える。だから法華経読みの法華経知らずで、法華経をきちんと読んだことにはならない、と言われるかもしれない。

今回、鎌田茂雄著「法華経を読む」を読んだのは、ひとつには、鈴木大拙の宗教論の一端に接して、日本の仏教についてもう少し突っ込んだ理解を得たいと思ったことと、もうひとつは、法華経を教えの本として読むにはどのような心構えが必要か、そのヒントを掴みたいと思ったことによる。

鈴木大拙が論及している禅や浄土仏教の本ではなく、法華経を選んだのは、やはり法華経は筆者にとってもっとも近づきやすいものであったのと、折角仏教をお浚いするのなら、大乗仏教の聖典といわれる法華経にあたるのがよろしかろうと思ったこともある。

小乗と大乗の違いは、前者が個人の宗教的な救済を主たる目的とするのに対して、後者は、個人が自分自身の救済にとどまらず隣人の救済、ひいては人類全体の救済に努力せよと解くところにある。ごく単純化して言うと、禅や念仏が、個人の個人としての救済を強調するのに対して、法華経は個人の個人としての救済を超えて、隣人ひいては人類全体の救済を目指すものだと言えよう。無論、禅や浄土宗と雖も大乗仏教の一派であるから、個人の個人としての救済に限定したものではない、ということはわかったつもりであるのだが、やはり人類全体の救済と言うテーマは、法華経のほうに強く現われているということができる。

人類全体の救済というようなテーマは、キリスト教や回教にもないわけではないようだが、キリスト教や回教はあくまでも個人が神の前に直立し、神の超越的な愛によって救われるという、非常に個人主義的な色彩の強い宗教である。それらにあっては、神という超越者が、個々の人間とストレートにつながっており、個々の人間はこの超越者としての神とのかかわりにおいて、自分の救いを求めなければならない。したがって宗教は、きわめて超越的な色彩を帯びる。

超越的という点では、浄土宗も同様である。浄土宗においては、阿弥陀仏が超越者として個々の人間の前に現れる。個々の人間はこの阿弥陀仏という超越者との間で直接的なかかわりを確立し、そのかかわりを通じて救済されるということになっている。つまりキリスト教の神や回教のアッラーに相当するのが阿弥陀仏ということになる。人々はその阿弥陀仏に対して南無阿弥陀仏と念仏を唱えることで、直接に阿弥陀仏との一対一の関係に入り、その中で救われるのである。

禅においては、個人は釈迦仏とのあいだで直接的な関係を確立しようとする。浄土宗と異なるのは、個人は超越者によって他律的に救われるのではなく、自分自身が修行を通じて釈迦仏と一体化するのである。個人は南無釈迦仏と念仏を唱えていただけでは釈迦仏と一体化できない。つまり成仏できない。成仏というのは、自分自身が仏になるということなのだが、浄土宗の場合には阿弥陀様の慈悲によって仏になれるのに対して、禅においては、自分自身の修行を通じてでなければ成仏できない。

自分自身の修行を強調する点では法華経も同様である。個々人は厳しい修行を通じてでなければ救われないのである。しかし修行をするだけでは十分ではない。自分自身の成仏だけを目指すものは、法華経では声聞とか延覚とか呼ばれ、そういう人達はそのままでは成仏することは出来ないとされる。成仏できるためには、自分自身にとどまらず、広く隣人や他者の救済をも念じなければならぬ。念じるにとどまらず、それを実践しなければならぬ。実践と言っても、(禅のように)こむつかしいことではない。法華経の教えをよく聞き、それを実践すればよいのである。南無妙法蓮華経と唱えるのは、そうした実践の一つの形なのである。

このように、自分自身のみならず人々の救済に向けて修行する人のことを菩薩という。法華経の中では、観音菩薩とか普賢菩薩といった菩薩が数多く登場し、仏の後見を受けながら、人々の救済に向けて多大の努力をするさまが美しく描かれている。この「美しい」ということは法華経の最大の特徴である。普通お経といえば、ご利益があるとか、ありがたいとか表現されるが、法華経は美しいのである。

ざっとこんな趣旨のことがこの本には書かれている。この本を読むと、法華経というお経の歴史的な背景や仏教の中での位置づけ、その世界観や一つ一つの言葉(仏教用語)の意味などが、わかりやすく伝わってくる。法華経を通じて仏教というものをとりあえず理解するには好都合な書物である。

著者鎌田氏自身は日蓮に深く帰依しているということもあって、その法華経解釈は日蓮に依拠している。法華経はもともと天台宗にもっとも重んじられてきた教典であり、天台宗を通じて日本のほかの宗教流派にも多大な影響を及ぼしたと言われるが、なんといっても日蓮宗における法華経の扱い方はもっとも先鋭的である。それは、仏によって救われることを求める点では他力本願だが、それについては己自身に厳しい修行を課し、あまつさえ他者の救済をも念じるという点で、法華経の大乗としての本質をもっとも切実に追求したと言ってよい。そうした日蓮による法華経の受け止め方を、なるべく忠実に再現しようとしたのが、この本であると言える。




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