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赤坂真理「愛と暴力の戦後とその後」


作家の赤坂真理は1964年生まれというから、戦後世代という言葉がはばかられる新しい世代の日本人だ。その人が日本という国の戦後のあり方に強いこだわりを持ち続けている。彼女の出世作となった「東京プリズン」という小説は、そんな彼女の戦後日本のあり方へのこだわりを吐露したものらしい。(らしい、と言うのは、筆者はまだそれを読んでいないからだ)

赤坂真理の戦後日本へのこだわりは、言い換えれば戦後日本社会に対する違和感である。赤坂は中学卒業後アメリカの高校へ入学し、アメリカ人の子供たちと付き合う中で、アメリカと比較する形で日本を相対化する見方を自然と身につけ、その過程で、戦後日本というものが一つの国家のあり方として異常なのではないか、と思うようになったらしい。

「愛と暴力の戦後とその後」と題したこの本は、そんな赤坂の戦後日本へのこだわりについて、作家らしく、アット・ランダムにぶちまけたものである。

戦後の日本が一つの国家として異常な形をとってきた原因を、赤坂は縷々分析しているが、簡単に言うと、「『完膚なきまでの敗戦』と『占領国アメリカへの愛』。そして『自分とアジアの忘却』」ということになるようだ。日本は先の戦争で完膚なきまでに打ちのめされたために、何故自分が負けたのか、それを冷静に反省することができなかった。その結果打ち負かされたアメリカに倒錯的な愛を感じるようになった。その愛は自分自身とアジアのことを忘却することで成り立っている、というわけである。

アメリカへの倒錯的な愛について、赤坂はジョン・ダワーの言葉を借りて性的な関係を思わせる、と言っている。性的な関係はなかなか言葉では言い表されない。それは身体で表現するほかはない。日本のアメリカへの愛が盲目的になる所以だ。

1945年8月15日を境にして、それ以前の日本とそれ以後の日本とでは断絶した部分と連続した部分とがある。連続した部分として赤坂が最も注目しているのは、子供の教育現場が依然として軍隊をモデルにしていることだ。それを赤坂は、アメリカの教育現場を実際見ることで気づかされたという。アメリカの学校は軍隊じゃない。アメリカの学校は学ぶための場所であって、学ぶという目的にかかわりのない部分においては、生徒は最大限の自由を教授している。

それに比べて日本の学校は、気をつけ・礼・休め、にはじまって軍隊的な規律が強要される場所となっている。「日本の学校は、若い人間の身体性に規制を加え、それを管理する場にもなっている」というのである。

この辺は女性作家としての視線が強く読み取れる部分だが、筆者もかねてからそういうふうに思っていたので、この指摘はなかなかインパクトがあると感じた次第だ。

軍隊的な規律を組織運営に持ち込んだ例として、赤坂はオウム真理教をあげている。オウム真理教は、軍隊を模擬した階級性だとか、その中で努力すれば出世できるというような擬似平等主義などによって構成員の忠誠をつなぎとめた。だから「オウム真理教とは、近現代の日本という国に、そっくりである。日本という国のつくり方そのものに、似ているのである」。それ故「オウム真理教を畸形的な集団と言うのなら、大日本帝国が畸形的な国家であったというべきであるし、実はその畸形的な国家に接ぎ木をするようなかたちで成り立っている今の日本という国も、ずいぶん畸形的といわなければならない」ということになると言う。

戦後日本の国の形については、さまざまな人々がいろいろなことを言ってきた。それでもなお、言い尽くされることがなかった、というので、赤坂女史のこのような言い分が加わったということなのだろう。

ともあれ、アメリカへの盲目の愛と肥大した自尊感情が矛盾なく同居しているらしい現今の日本の政治家たちを見るにつけても、赤坂女史のこういう言い分にはもっと耳を傾けてしかるべきだと思う。




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