知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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内田樹「レヴィナスと愛の現象学」


レヴィナスが現代思想の巨人の一人だということは聞いていたが、その本を読んだこともなければ、その思想がどのようなものかもろくに知らなかった。そのレヴィナスを内田樹が高く評価するばかりか、自分の考え方の拠り所にもしているというので、このたびその内田樹の書いたものを手がかりにしてレヴィナスの思想の一端に触れてみようと思った次第だ。というのもレヴィナスの書いたものは非常に難解だと言われており、一度や二度テクストを読んだくらいではとても理解できないという。そこでレヴィナスの弟子を任じている内田ならば、師匠の思想を噛み砕いて日本人に解説してくれるのではないか、そんな期待を持ったのである。内田を通じてレヴィナスの思想の一端にせまることができるか、それともレヴィナスを材料にして内田が自分の思いのたけを吐露するのを聞かされるのか。それは読む前には無論わからなかったし、読んだ後でも明らかにはならなかったが、面白く読んだことは確かなので、読まないよりは良かったと思っている。

内田のレヴィナスとのかかわり方は一研究者が自分の選んだ研究対象に対するかかわり方といった範疇を越えているようである。内田にとってレヴィナスのテクストは研究対象ではなく、智恵の泉なのだ。そこから内田は知識を汲み取るのではなく、生き方についての智恵を汲み取る。それゆえレヴィナスは内田にとって、自分の行く道を照らす光のようなものだ。そんなレヴィナスに内田はどのようにしてめぐり合ったのか。内田は次のように語っている。「ひとはその理解を超えたものに直接的な仕方で呼びかけられることがある」と。つまり内田は、自分の理解を超えたものから直接的に呼びかけられた。理解を超えたものとはレヴィナスの言葉であり、直接的に呼びかけられたというのは、有無を言わせぬ直感として、自分にとっての運命を啓示するものとして、いわば神の声に呼びかけられたようであったということを意味するらしい。つまり内田のレヴィナスとの出会いは、神の意思に導かれた運命のようなものだったようなのだ。

内田自身は、自分とレヴィナスとの出会いに神の意思が介在したなどとは露骨には言っていないが、彼がその出会いについて語るところを読むと、どうもそのように思わされるのである。

レヴィナスを内田は、「リトアニア生まれのユダヤ人で、ドイツの現象学と存在論について、タルムードの弁証法を駆使して、フランス語で批判的叙述を行っているひとである」と簡単にスケッチしている。このスケッチの中で最も重要なのは「タルムードの弁証法」という言葉である。タルムードの弁証法とは、ユダヤ人たち、とりわけラビたちが、神の言葉としての聖書を解釈するさいに拠り所とする思考様式のことである。弁証法という言葉が使われているように、ラビたちは聖書を解釈するにさいして、一義的で完全な回答を求めない。聖書のテクストはたったひとつの解釈のうちに閉じ込めることができるような閉鎖的なものではない。それはさまざまな解釈に開かれている開放的なテクストである。それと同じようにレヴィナスのテクストもさまざまな解釈に開かれている。「レヴィナスはあまりに難解であるために、万人に開かれているのである・・・レヴィナスはタルムードの文体を範例として彼のテクストを書いている。彼のテクストにおける読みの解放性・複雑性は、意図的に工作されたものである。彼はあえて一義的な解釈が成立しにくいように書いている。その難解さと曖昧さは戦略的に選び取られたものである」

この「読みの開放性」が許されているということを頼りにして内田は、そこに自分の読みを付け加えても差支えがないだろう、むしろそのことによって、レヴィナス解釈の幅が広がることはよいことだ、という信念から自分自身のレヴィナス解釈を、とりあえず日本の読者に向かって開示しているわけである。というのは、内田のテクストを読むものには、レヴィナス自身は含まれないだろうし、日本人以外のものが含まれるとも思えないからだ。したがってレヴィナスをめぐり内田によって呼びかけられた言葉は、それがユニークなのかあるいは陳腐なのか筆者には判断する手がかりがないが、殊勝な日本人に向かって発せられているわけである。一日本人である筆者はその内田の言葉を、なるべく偏見をまじえず受け取りたいと思う。

この本の中で内田が取り上げているのは、レヴィナスの多彩な思想のうちから、他者にかかわる問題とエロスにかかわる事柄である。その前段として、レヴィナスの現象学の方法が持つ特徴について言及している。その特徴とは、この本の題が表明しているように、「愛の現象学」というべきものである。

フッサールの現象学は、「観想的現象学」というべきものである。フッサールは、人間の認識の領野を占めている現象を叙述するのに、もっぱらそれを視覚の対象として叙述した。それゆえ「観想的現象学」というわけである。フッサールにとって、人間の自然認識や他者理解は、すべて視覚にもとづいて構成される。人間にとって、自分の生きている生活世界は視覚優位の世界だとされたのである。だがそれは一面的な見方だ、というのがレヴィナスの主張だ。人間は視覚だけで生きているわけではない。たとえば人を愛するというとき、愛されている対象は単なる視覚的な対象ではない。「愛される対象の固有性は、まさに愛の思考のうちに与えられるということに存する。この志向は純粋に観想的な表象には還元不可能である」。愛の対象としての他者は、「観想的志向対象ではない。にもかかわらず、私はそれを『めざす』ことができる。『めざす』ことができる限り、そのような営為は必ずや『現象学』として記述しうるはずである。『愛の現象学』・・・がありうるはずである」。

「愛の現象学」があるとすれば、それはフッサールの「観想的現象学」ではなく、「非観想的現象学」となるはずだ。そうした現象学にとってもっとも中心となるのは他者の問題だろう。なぜなら他者は、フッサールの共同主観論の立場からは説明できないからだ。他者との生き生きとしたかかわりを説明できるのは、非観想的現象学としての愛の現象学だけである。

レヴィナスの現象学をこう抑えたうえで、内田はレヴィナスが他者をめぐって展開した思想の軌跡を追ってゆく。細かいことを省けば、他者とは究極的には神のことをいっているということが、なんとなく伝わってくる。フッサールのような、一種の感情移入によって他者理解を解明しようとする立場では、神の事柄は理解できない。何故なら神とは、絶対的な他者として、人間の感情移入などを超越した存在だからだ。この辺のレヴィナスの議論は、彼がユダヤ人であるということを、痛烈に意識させるところだ。

面白いのは、レヴィナスがもうひとつの別の他者のモデルとして女を持ち出してくるところだ。そういうところを見せられると我々は、レヴィナスは女と神を同一視していたのではないかと思わされる。レヴィナス自身がそう思っていたのか、あるいは内田がそのような解釈を導くような読み方をしているのか、レヴィナスの原典に通暁していない筆者には判断がつかない。

もう一つ面白いのは、レヴィナスの女に対する姿勢には非常に敬虔なつつましさがあるというべきはずなのに、かえってそれが女を差別した見方だと、フェミニストたちによって集中攻撃されたことだ。内田は自分をアンチ・フェミニストだと日頃から吹聴しているが、そうなった原因はフェミニストたちが不当にレヴィナスを攻撃したことにあるということらしい。レヴィナスが女性を男性とは差別化された被造物といったのは、女性のほうが男性よりも尊いということをいったはずなのに、フェミニストたちはほかならぬそのことを攻撃する。彼らあるいは彼女らにとっては、女性と男性は無差別であるべきだということになるが、それこそ女性の優位性を自ら否定する愚かな行為である、と内田には思えるようなのだ。




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