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中沢新一「はじまりのレーニン」


中沢新一は、浅田彰とならんで日本のポストモダンのチャンピオンということになっているが、彼を評価するものはあまり多くはいない。というより、無視される場合が多いのではないか。それは彼独特のエクリチュールに原因があるのだろう。筆者が始めて彼の文章を読んだのは南方熊楠についての一連の解説だったが、それは解説というよりは、熊楠という途方もない巨人に対する中沢の共感を素直な言葉で表現したものであって、論文を読むというよりは、宣命を聞かされているような気がしたものだ。宣命には、この世の不思議に対する深い共感がこだましている、それと同じような共感を中沢は熊楠に抱いて、その驚きの感情を独特のリズムに乗った文章で表現している、そんなふうに感じたものだ。

熊楠に対して抱いた共感と同じようなものを中沢は、レーニンにも感じたようだ。レーニンとは、あのロシア革命を成功させた革命家にして、偉大なマルク主義者として知られる、今では歴史的な人物と言われる人だ。その歴史的な人物であるレーニンに中沢は、あたかも同時代の偉大な人間に対するように向き合っている。そしてその偉大な同時代人から、尽きせぬ智恵をくみ出そうと努めている。これは驚くべきことと言わねばならない。何故ならレーニンは、単に歴史的な、つまり過去の人間であるにとどまらず、既にあらゆる歴史的な意義を失った骨董品のような存在に祭り上げられているからだ。骨董品は愛玩すべきものであっても、実際の活用に耐えるものではない。ましてや、そこから教訓を引き出せるわけのものでもない。そのわけもないことを中沢は、行おうというわけなのであるから、それは無謀で驚くべきことといわねばならないのである。

「はじまりのレーニン」という書名には、レーニンに対する中沢の深い敬意が込められている。歴史的な意義を失ったはずの、つまり終わったはずの人間であるレーニンに、ある壮大な物語のはじまりを感じる、というのがこの言葉に込めた中沢の思いなのだろう。ではレーニンによって何が始められるのか。こうした問い自体がいまでは無意味なものと受け取られかねない中で、中沢はあえて、レーニンから何事かが始まると予言するわけなのである。予言というのにはわけがある。この書は、歴史的な人物を対象にした伝記的な本ではなく、また、科学的な分析をこととする所謂社会科学の本でもない。レーニンという人物のなかに、人類の未来についての深い洞察を読み取り、そこから人類のあるべき未来像を引き出そうとする極めて実践的な試みをもくろんだ本なのである。そうした未来像の提示は、予言というかたちをとらざるを得ないのだ。

レーニンに対する中沢の思い入れは、彼が最初に読者に提示するレーニン像に早くも現れている。中沢はレーニンを一言で説明するキーワードとして「笑うレーニン」という言葉を使う。レーニンは子どもと一緒にいるときにはいつも笑っていたし、犬のおなかをなでるときも笑っていたし、釣針に魚がかかったときには「ドリン・ドリン!」と叫びながら喜びの笑い声を上げた。レーニンのそうした笑いは、自分自身と世界との深い一体感から発しているもので、彼はその一体感のよって来るところのものを、自分が世界全体と、物質という点でつながっていることに求めた。そこから彼は、彼独特のユニークな唯物論を築き上げた。それが弁証法的唯物論というべきものだが、それはソ連の公式の「マルクス主義」が主張するような硬直した唯物論ではなく、力動的で生命に満ちた唯物論なのであった。中沢はそうしたレーニン独特の唯物論が、どのようにして形をとるようになったか、それをこの本の中で明らかにしようというわけなのである。

細かい議論を省いて簡単にいえば、レーニンの思想には東方的な要素が色濃く含まれている、というのが中沢の見立てである。レーニンの思想には、古代唯物論、グノーシス主義、東方的三位一体論が源泉として働いている。これらの思想は、キリスト教成立以前の古い思想であったり(古代唯物論)、キリスト教の成立にさいして主流派の考え方と対立したものであったり(グノーシス主義と東方的三位一体論)したわけだが、それらのいずれにも東方的な要素が色濃く働いていた。キリスト教の正統派の思想はそうした要素を切り捨てることで成立したわけだが、そのことによってキリスト教は大事なものを切り捨てることになった。それは、人間の存在が世界そのものと通底しあっているという、ある意味当たり前のことが無視されるようになったということだった。人間と世界とは物質というあり方を通じて通底しあっている。物質が自己反省するようになったものが人間の精神なのだ。世界は物質が自己展開するプロセスとして生成してゆく。それ故、人間の解放と世界の生成は深く結びついている。ところがキリスト教はこの結びつきを断ち切ってしまった、というのである。

古代唯物論はともかく、グノーシス主義や東方的三位一体論を弁証的唯物論と結びつけて論じたのは、中沢をおいて他にはいないのではないか。その点でこの書物は、世界的にみてもユニークな書物と言える。もしこの書物に世界史的な意義があるとすれば、それはキリスト教的な考え方を相対化する一方、東方的な考え方にもっと注目する視点の必要性を強調した点であろう。




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