知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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柄谷行人「世界共和国へ」


この本の中で柄谷が試みたのはマルクスの国家論への批判である。マルクスは国家を上部構造として、ある種のイデオロギー装置のようなものとして見た。国家は、経済関係を下部構造として、経済関係における支配階級がそれ以外の階級を支配する為の道具である、というのがマルクスの国家論の基本的な特徴である。国家は階級支配の道具であるから、階級支配とそれを担う階級が消滅すれば、それに伴って死滅する。マルクスが目的とした共産主義社会というのは、国家が死滅したあとの社会の状態、階級支配のない平等な社会である、ということになる。

これに対して柄谷は、国家は上部構造などというものではなく、人間社会が成立する為の基本的な枠組みのようなものだとする。国家は、マルクスがいうように経済関係によって規定されるのではなく、かえって経済関係を規定する。国家は経済関係が成り立つ為の条件を提供するのであって、経済の後に国家があるのではなく、経済関係の成立に先立って国家が存在する、とするのである。

マルクスは国家の本質を見誤ったがために、国家によって手痛いしっぺ返しを受けた、というのが柄谷の見立てである。社会主義革命の経験が教えているのは、革命によって国家が死滅するどころか、かえって国家が強化され、社会主義は国家社会主義となった、その結果実現されたのは自由の王国ではなく、抑圧の体制であった、ということである。これは国家の本質を正しく認識しなかったことの結果だ、と柄谷は主張するわけである。

マルクスは何故国家の本質を見誤ったか。これは国家を上部構造とする見方と相通ずるが、国家を社会の内部から捉えようとしたことに原因がある、と柄谷は考える。国家は社会の中から、社会の要請に基づいて出現する。要するに特定の社会の特定の産物なのだ、とするわけである。しかし、それは違う、と柄谷は言う。国家というものは、社会の内部から生まれるというよりは、社会の隙間から生まれる。わかりやすく言うと、共同体と共同体とがぶつかり合う、その隙間に国家は生じる、というのである。

国家というものは基本的には、他の国家との関係において、国家としてのあり方を示す。まず国家というものがあって、それが他の国家とかかわりあうのではなく、共同体と共同体とが向かいあうその隙間に国家というものが生まれてくる地盤がある。国家はその最初から他の国家を前提とした、相対的な概念なのだ。

国家というものは単独では成り立ち得ない。それはかならず他の国家の存在を前提とする。それゆえ、一国の範囲内で革命を成就し、国家の死滅を図ろうとしても無駄である。他の国家が存在する限り、その国家との関係において、国家は国家としての存在をやめることができない。もしも、国家を解体し、それを以て国家の死滅が成就したと宣言する民族があったとしても、それはお人よしの民族が、自立した国家としてのまとまりを放棄して、他の国家に隷属することになるのがオチである。

マルクスが国家の本質を見誤ったもうひとつの理由は、彼がプルードン主義者だったことにあると柄谷は言う。プルードンと言えば、要するにアナーキストだ。アナーキストというのは、国家の死滅を目指すものと言ってよい。そのアナーキストのプルードンとマルクスは同じ考えを抱いていた、と柄谷は言うわけである。

プルードンと言えば、「哲学の貧困」のなかでマルクスが徹底的に槍玉にあげた思想家であり、マルクスとは水と油と思われがちだが、実はそうではなく、両者は同じ国家観を共有していたと柄谷は言う。国家は、社会の中から生まれてきたものだから、社会の中でその死滅を図ることが出来る。国家のない社会、それは抑圧のない社会と言ってよいが、それを実現するのがアナーキストとしてのプルードンの目標であり、マルクスもその目標をアナーキストとして共有していたと言うのである。

しかし国家は共同体社会の周縁部で、つまり他の共同体との間の隙間で生まれるものだから、共同体社会の内部からは、それを消滅させることは出来ない。出来るのは国家の消滅ではなく、自前の国家を放棄して他の国家に隷属することだけだ。そこのところをマルクスは決定的に見誤った、というのが柄谷の基本的な主張である。

柄谷の面白いところは、国家は簡単には消滅しない、したがってマルクスの共産主義革命の理論はほとんど夢に近いと言っておきながら、国家の死滅はあながち夢でもないと言うところにある。国家というものは基本的には抑圧的なものだから、人間の理想的な状態を考える場合には、やはりその消滅を前提とせざるを得ない。しかし、国家が消滅しないと断言しては、人間には解放の希望が閉ざされてしまうことにもなるので、やはり国家の死滅の可能性は排除しないで置きたい。そんな思惑が強く働いたのであろう、柄谷は柄谷なりに、国家の死滅の条件について考えをめぐらす。

この本の中にもその考えの一旦は示されているが、まだ明確な形はとっていないようである。柄谷が持ち出すのは、地球上のすべての民族が、それぞれ自前の国家を放棄して、みんなでひとつの国家を共有するというイメージだ。国家が共同体と共同体との隙間に生まれるのだとすれば、その隙間を埋めてしまえばよい。それには地球上に住んでいるすべての人間たちが、一つの共同体の成員であると自覚するようになるのが一番肝心なことだ。そう柄谷は考えているようだ。柄谷はそれを「世界共和国」と名づけている。この概念を説明するにあたって柄谷が拠り所にするのは、どうやらカントであるらしい。




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