知の快楽 哲学の森に遊ぶ
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瀬戸内寂聴「白道」


瀬戸内寂聴の著作「白道」は、歌人西行の評伝である。寂聴は小説家であるから、西行を歴史的な視点から見るというよりも、小説家らしい視点から見ている。それは空想を交えたもので、西行を一人の生きた人間として見るというものだ。では寂聴は西行という人間を、基本的にはどのような人間として見ているのか。ごく単純化して言えば、自分の生涯をかなわぬ恋に捧げたヤワな人間として見るということのようである。西行のそのかなわぬ恋の対象とは、院政時代を奔放に生きた恋多き女待賢門院璋子である。

西行は二十三歳で忽然と出家したのであったが、その真の理由は璋子との恋にやぶれたことであった、そう寂聴は推定する。以来馬歯七十三歳で死ぬまでの五十年間、西行は璋子への切ない思いを胸に抱きながら生き続けた。彼が生涯に読んだおびただしい数の歌の殆どは、璋子への切ない思いで満たされている。そう寂聴は思うのだ。

そんなわけでこの本は、璋子とかかわりの深い京都花園の浄土寺院法金剛院を寂聴がたずねるところから起筆されている。法金剛院は璋子が晩年を過ごした所であり、彼女の墓もそこにある。ここには出家後の西行も何度か足を運んだに違いないのだが、それは璋子への思慕の情がそうさせたのだろうと寂聴は推測する。この本は、これ以外にも西行とかかわりの深い地を、寂聴みずから足を運んで訪ねる場面が多く出てくるが、それは小説家としての自分の想像力に多少の根拠を与えようという寂聴の気配りを思わせるものだ。

西行は崇徳院に対して並々ならぬ経緯を払っている。崇徳院は璋子が十八歳のときに始めて生んだ子だ。西行より一切年下だから、それを生んだ璋子は、当時の感覚では、自分の親の世代といってもよい。そんな女性を西行は、どのような機縁で深く愛するようになったのか。これについて寂聴は多くの紙筆を費やすことをしていない。そんなことは下種のかんぐりとでも言いたいかのようだ。

この崇徳院が晩年流された讃岐の地にも寂聴は足を運び、西行もまたそこで崇徳院のために冥福を祈ったであろうことに想像力を働かせている。その延長で寂聴は、善通寺にも足を運んでいるが、それは西行もそこを尋ねたからという理由のほか、善通寺が弘法大師の生まれた、いわば真言宗の聖地であるという理由かららしい。寂聴自身は天台宗の尼僧ということだが、日本の仏教史に屹立する弘法大師には一仏教徒として深い敬意を感じているのだろう。

この本の大きな特徴は、西行の歌を沢山引用して、それらを西行の生涯の中に位置づけたうえで、そこに込められた西行の気持を読み取ろうとしているところだ。この辺は寂聴の作家としての資質が働いているところで、並みの学者ではなかなか及ばないところだろう。

その寂聴がこの本のなかで最初に引用する西行の歌は次の歌である。
  ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならんとすらん
この歌を寂聴は、西行が崇徳院を忍んで四国を訪ねた際に作ったものだろうと推測している。西行は四国の草深い山の中にかりそめの庵を結んで崇徳院の冥福を祈ったのだったが、その庵を去る段になってこの歌を読んだのだろうと推測するのである。

一方、最後に引用するのは次の歌である。  
  山深くさこそ心は通ふとも住まで哀れは知らぬものかは
これについて寂聴はとくにコメントしていない。読者ひとりひとりが自分の心で受け止めてもらいたいというかのように。




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