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水野和夫「資本主義の終焉と歴史の危機」


資本主義には終わりがある、という見方は、かつてはマルクス主義に特有のものだったが、今では普通のエコノミストでも言うようになった。中でも水野和夫は、「資本主義の終焉と歴史の危機」について、もっとも明快に主張している。彼はメガバンク系のチーフ・エコノミストをやったこともあり、資本主義には職業的な利害を感じていたはずなのに、その彼にして資本主義は終焉を迎えつつあると言うのだから、ことの深刻性を思わせるというものだろう。

水野によれば、資本主義とは、資本が利潤を生むことを前提に成り立っている。従って資本を投下しても何ら利潤を生まないのであれば、資本主義は成り立たない。今の世界経済はそうした状況に陥りつつある。日本などは実際、とっくにそうした状況に陥って久しい。欧米もその方向に向かって加速度的に進んでいる。近い将来、世界経済全体がそうなるだろう。その暁には、資本主義は終わりを宣告され、新たな経済秩序の形成を目指して、人類の異次元の歩みが始まるだろう。そんなふうに水野は予言する。

資本は何故利潤を生まなくなったのか。それは地球上からフロンティアが消滅しつつあるからだ、と水野は言う。利潤というのは無から生まれてくるわけではない。利潤というかたちで金をもうける連中がいる陰には、かならずその金(というか金のもととなるもの)を搾り取られているものがいる。つまり、金を持った奴が金を持っていない奴から、なけなしの金を、合法的にかき集めることで、利潤が生まれる。このことをマルクスは収奪と言ったが、水野はそんな物騒な言葉ではなく、蒐集と言い換える。だが言葉の言いかえで事態の本質が変わるわけではない。ともあれ、金を蒐集できる余地を、水野はフロンティアというのだが、そのフロンティアが消滅しつつあることで、利潤を生む金の泉が枯渇しているというわけである。

これまでのフロンティアは、広大な規模の第三世界が提供してきた。経済先進国の資本は、このフロンティアとしての第三世界から富を蒐集することで、それを利潤に置き換えてきたわけだ。ところが中国やインドといった巨大な国々が、いまやフロンティアとして蒐集の対象に甘んじる立場から、自分も資本家となって富を蒐集する立場に変わった。こうなると、先進国が後進国を収奪するという構図が成り立たなくなる。先進国・後進国にかかわらず、資本がいかにして利潤を確保するか、それが重要な課題となってきたわけである。

今のところ、グローバリズムがこの課題を解決する鍵だと宣伝されているが、このグローバリズムとは、資本が国際的な規模で富を収奪するシステムだと水野は考えているようである。今までは、先進国の資本が後進国の富を蒐集するという構図だったが、グローバリズムの時代では、国籍を問わずあらゆる資本が国際的な規模で利潤を追求するという構図に変わる。しかしもはや後進国というフロンティアはないわけだから、資本は別の形でフロンティアの創生に勤めねばならない。それは国内的には格差の拡大という形をとる。中間層を分解して富者と貧者とに二極分化させ、富者が資本を投下して貧者から収奪する、という新たな構図が生まれてくる。

水野によれば、これまでの歴史の経験則からして、15パーセントの富者が残りの85パーセントから富を蒐集するというのが普遍的な傾向だったという。これを今後の経済に当てはめれば、これまでのような先進国対後進国の対立という構図が崩れて、15パーセントの富者層対残りの85パーセントの対立という構図が世界的な規模で形成される蓋然性が高い。そうなれば、15パーセントに分類された中国人が、85パーセントに分類された日本人を収奪するということも当たり前のこととして生じてくるわけである。

これはしかし、歴史の進行過程のなかで一時的に現れる現象であって、長期的には資本の利潤率は限りなく減少し、ついには資本が資本として成り立たなくなる世の中がやってくるに違いない、というのが水野の見立てだ。資本主義には明るい未来はないというわけである。

無論別の見立ても成り立たないわけではない。世界が15パーセントと85パーセントに完全に分割され、15パーセントが85パーセントを巧妙に収奪することで、国際的な資本のネットワークが繁栄し、それによって資本主義が新たな段階に入るという可能性も考えられないではない。しかしそうしたシステムが安定的に機能するためには、階層間の絶妙なバランスが不可欠だろう。収奪が収奪として意識されるようでは、そうしたバランスは成り立たないだろう。その場合には85パーセントの不満が爆発し、15パーセントへの大規模な反乱、つまり革命的な騒ぎが起るだろう。蓋然性としては、こちらのほうが高いかもしれない。

ともあれ資本主義の歴史についての水野の視点はかなり巨視的である。巨視的すぎて我々の現実感覚からは遊離しているところがあり、また過去の歴史分析にも粗雑なところは否定できない。それでも資本主義の命運について、巨視的な視点に立って予言しているところは壮大な試みといえよう。目先の利害得失に目を白黒させている自称エコノミストたちの及ぶところではない。



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