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宇野重規「保守主義とは何か」


政治学の文脈で保守主義が論じられるときには、だいたいエドマンド・バークへの言及から始まることが多い。バークはフランス革命を批判したことで知られる。フランス革命を批判することでバークは、急激な変革ではなく漸進的な改革のほうが好ましいということを主張するとともに、フランス革命のようなドラスティックな変革によって伝統的な価値が破壊されることに反対した。世の中には守り伝えるべき価値というものがあり、それは革命によって破壊されるべきではない、と主張したわけである。バークにとってその価値とは、名誉革命によって確立されたイギリス政治の自由主義的な伝統であった。

宇野重規の保守主義論もそういう見方に立っている。彼は保守主義を考える場合「何かを守る」という原点に帰ることが必要だと協調しながら、保守主義というものはバークのフランス革命批判から始まり、その主張の根幹は自由主義の擁護だったと特徴付けている。彼にとってはだから、保守主義と自由主義とはかなり重なりあう概念ということになる。ところが保守主義が自由主義と堅固な結びつきを見せたのは、イギリスとその落とし子としてのアメリカにおいてのみであり、ヨーロッパのほかの国々では、保守主義は復古反動と結びつく場合が多かったし、自由主義は進歩主義と結びつくケースが多かった。進歩主義というのは保守主義のアンチテーゼと言ってよい。

保守主義と自由主義とをかなり強引に結びつけることで、宇野の保守主議論は偏った印象を与える。彼の保守主義の定義によれば、ドイツやフランスには真の保守主義はなかったということになる。フランスでは自由主義は革命の伝統と強く結びついていたし、ドイツでは自由主義の伝統が根付くことはなかった。そういうところでは、バークに由来するような保守主義が強い勢力になることはなかった。実際、「保守主義とは何か」の中で宇野が展開している保守主義の議論は、英米に偏っており、ドイツやフランスはほとんど視界に入ってこない。それらの国々では保守主義は根付かなかった、と宇野が考えていることの現われだろう。

バークの保守主義がフランス革命への対抗だったとすれば、20世紀の保守主義は社会主義革命への対抗だったとする宇野の議論は、一面的過ぎるだろう。20世紀の保守主義が社会主義革命に対抗したのは間違いないにしても、保守主義だけが対抗したわけではない。むしろ保守主義者はバイ・プレイヤーだったにすぎない。社会主義革命に面と向かって対抗したのは、イギリスの社会改良論者(フェビンたち)たちやアメリカのニューディーラーたちだった。彼らは社会主義革命の衝撃から資本主義社会を守ろうとしたわけだが、その方法は保守主義者たちのように伝統に寄りかかるやり方ではなく、資本主義の矛盾を真っ向から解決することで、資本主義を社会主義に劣らないシステムだと人々に信じさせることだった。彼らの姿勢はかなり進歩的だったのである。

イギリスの社会改良論者やアメリカのニューディーラーたちも自由の価値を最大限強調したが、それは保守主義者の主張するような守るべき価値としてではなく、社会を前に動かしてゆく理念としてであった。自由の持つ意味が、保守主義者とニューディーラーたちとの間では、かなり違うベクトルを持っていたわけである。

宇野は、反社会主義の戦いに果たしたニューディーラーたちの役割を過小評価している。あたかも保守主義者こそが反社会主義の戦いの前線を担っていたかのような捉え方をしているようである。だからこそ、ハイエクを過剰に評価するのだろう。

ハイエクが影響力を持ち始めたのは、サッチャーやレーガンの時代以降のことである。社会主義の矛盾が次第に明らかになり、ついにはソ連や東欧の社会主義体制が崩壊する。つまり保守主義の当面の敵がなくなるわけだ。そういう時代背景の中でハイエクは、保守主義の中の自由の要素を強調した思想家として、社会主義なき時代における、資本主義システムの宣伝家としての役割を期待されるようになった。だから彼の思想は、社会主義が存在している世界においての反社会主義理論という位置づけではなく、社会主義が不在の世界においての資本主義擁護イデオロギーとしての側面を持たされている。彼は保守主義者というよりも、資本主義擁護論者というべきなのである。

宇野は日本の保守主義についても言及している。宇野の定義によれば、日本に保守主義があったかどうかはかなり疑問である。近代の日本についていえば、明治維新と昭和の敗戦が歴史の二つの分水嶺となったわけだが、どちらも体制のドラスティックな変化を伴った。それによって出来上がった新しい体制は、バークのいうような、過去から受け継いだ守るべき伝統ではなく、新しい枠組みとして、人為的に構想されたものだった。バークの言う漸進的な改革ではなく、フランス革命なみの大激動であったわけだ。そんなところでバークのいうような保守主義が成り立つわけはない、ということになる。

だが宇野は、日本の保守主義についても考えるべきだとし、できうれば日本にも健全な保守主義の定着することが望ましい、というようなことを言っている。その背景には、やたら保守主義を振り回す日本人が増えたという事情もあるようだが、彼らを意識するあまり、ありもしないものをあるといったり、それに基づいて保守主義者たちの言い分にお墨付きを与えるようでは学問の良心を疑われるだろう。



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